[目次] 保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち [保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち]
カナダで保育士を目指して勉強するMakのレポート、折り紙トトロやチューリップなども(全12話)。 1 プロローグ ~“おりがみチューリップ” in England 2006-02-25
2 “おりがみトトロ” in New Zealand 2006-04-10
3 "Early Childhood Education" in Canada 2006-04-25
4 The First Day of my Practicum ~ "ひとりひとり"との出会い 2006-05-16
5 "Diversity" ~ "モザイク国家"と子どもたち 2006-06-14
6 "Open-ended" ~ スタートラインとゴールライン 2006-09-19
7 "Open-ended"(2)~Assignmentsと自分と先生と 2006-10-12
8 「小学校英語の必修化」Internationalisation~ 幼児教育と語学習得の現場から(1) 2006-10-16
9 "正しい英語"(前編) Internationalisation~ 幼児教育と語学習得の現場から(2) 2006-10-19
10 "正しい英語"(後編) Internationalisation~ 幼児教育と語学習得の現場から(3) 2006-10-22
11 "記憶力と英語学習"Internationalisation~ 幼児教育と語学習得の現場から(4) 2006-11-09
12 号外☆A Merry Christmas in Canada☆ 2006-12-20
A Merry Christmas in Canada☆ [保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち]

☆号外☆A Merry Christmas in Canada☆
*Mak*
今年に入ってから,こちら(カナダ)で経験したこと・学んだこと・感じたことなどを少しずつお伝えしてきたこのレポートですが,カナダからお届けするのは今回で最後になりそうです。
昨年9月から始めた「幼児教育」の勉強も,12月上旬ですべて無事修了し,
荷造りやみんなへのお別れもばたばたしながらなんとか終え,
日本へ経つ前の晩(12月19日)に,今,パソコンに向かってこのレポートを書いています。
残念ながらクリスマスを前に日本へ帰りますが(ちなみに去年のクリスマスはこちらで過ごしました),
帰るからこそ余計に,クリスマス前のクリスマスに向けた出来事ひとつひとつが,去年よりもとても印象に残っているような気がします。
というわけで(予定を変えてばかりですが),カナダから最後のレポートは
そんな「当日以外のクリスマス」です。
去年も今年も,ハロウィーン(10月31日)が終わった瞬間に,
町は少しずつ“クリスマス色”に染まり始めます。
そして,11月中旬,
この町では“Santa Clause Parade”と呼ばれる行事があります。
これは,お祭りのおみこしのようなイメージで,街のメインストリートを,いろんな“山車(だし)”が大行列を作って,それを見に町中の人が集まってきます。
山車と行っても,大きなトレーラーやバスに電球や飾りをつけたものだったり,警察だったらパトカーだったり,馬に乗っている人もいます(みんな,歩くくらいのスピードで“走り”ます)。そして,地元のアイスホッケーのチームのプレーヤーたちは,子どもたちにキャンディーを配って歩きます。
決まっているのは順番と通る道だけで,それぞれがそれぞれの形で,見ているほうも“山車”に乗っている方もこのパレードを楽しんでいます。

去年は観客として,そして,今年は,実習先の幼稚園が“山車”を持っていて(トレーラー)前日の飾り付けから翌日の片づけまで,“当事者”として参加することができました☆
実は,12月ではなく11月にやってしまう理由は「12月は寒すぎるから」(-30℃近くまで下がる日も多くなるので・・・)らしいのですが,それがかえって,町をクリスマスへ向けてゆっくりと盛り上げていってくれているような気がします。
12月に入ると,子どもたちは,サンタクロースに手紙を書き始めます。
ホームステイ先の,今年小学校1年生になった6歳の男の子は,学校で手紙を書き,家では夕飯の後に,お母さんとお父さんが,サンタクロース宛の,「欲しい物リスト」を,子どもに聞きながら作ります。4歳の女の子は,“Super Duper Pencil”と,とても目を輝かせながらお父さんお母さんに言っていました(“Super Duper”というのはsuperをさらに強くした,“ものすごい”のような雰囲気の言葉です)。
子どもたちは,実際たくさんのプレゼントをもらうので(サンタ,親,親戚etc.)親たちは,“What else?”と,できるだけたくさん聞き出し,その上で吟味を始めます。
6歳の男の子は,今,とても鉄砲(銃:もちろんおもちゃ)に興味があり,それを受けてお母さんは,「これはちょっと相談して決めようね。サンタクロースはできるだけみんなの欲しい物をプレゼントしたいと思っているけど,親が望まないものは持ってきてくれないから・・・」と,サンタも子どもも尊重しながら話を進めます。
12月の中旬あたりから,あちこちでパーティーやクリスマス関連のイベントが起こります。
カレッジのクラスでは,授業最終日の午後,打ち上げ兼クリスマスパーティーが開かれました。
机を動かし,飾り付けをして,食べ物&飲み物は,みんなが少しずつ持ち寄る“Potluck Party(ポットラックパーティー)”と呼ばれるこちらではよく行なわれる形(ちょっとずつでもみんなが持ち寄ると,とても食べきれない量になります)。
品数も多いので,全部食べたいけど食べられない・・・と悔しがる人も多いです☆

そして,ひとりひとりが800円~1000円のプレゼントを買って,ツリーの下(or周り)に置き,
プレゼント交換は,くじびきで一人ずつプレゼントを受け取ります。

後半になると,みんなでクリスマスキャロルを歌ったり
留学生たちは,自分たちの国の言葉でクリスマスソングを歌ったりします。
みんな,授業が終わった喜び(安堵?)と,もうすぐクリスマスというわくわく感で,
“教室”はなんともいえない雰囲気につつまれます。
小学校では,「クリスマスコンサート」が開かれます。
文化センターのシアターを借りて,各クラス(幼稚園から中学1年生までくらい)が歌ったり踊ったり演奏したり,中には仮装大賞のようなものもあったりと,それぞれのクラスが好きな出し物を繰り広げます。歌も,音程が少し(たくさん?)外れようがリズムがちょっと(けっこう?)ずれようが,歌っている方も見ている(聴いている)方もお構いなしです。
というよりは,「きれいに歌う」ことよりも「楽しんで歌う」
ひとりひとりの「個性」が「楽しむ」という共通点でひとつになって
そのクラスにしかない独特の「雰囲気」を作り出して
だから,聴いている方も飽きることなくとても楽しく聴くことができる
そんな感じです。

街の人たちも,自分たちの家のデコレーションを始め,町はとてもカラフルになります。
もちろん,家によって飾りつけは様々で,カラフルに飾っている家もあれば,青一色できれいにまとめている家もあったり,音楽付きでライトがリズムに合わせて点滅しているものもあったりと,車で走っていても,思わず留まって写真をとりたくなるような,そんな家がたくさんあります。
今回は,日本からやってきて結婚し,この町で暮らし始めたKazさんが,“クリスマスデコレーションツアー”を企画してくれて,Kazさんと友達もう一人と,車で町の中をめぐってきました。


スーパーには,クリスマスツリー用のモミの木が寒さに負けず,青々とがんばっています。

そして,今日(19日),夕飯の後,家の中では,子どもたちのためのクリスマスカード作りが始まりました。6歳の男の子は小学校のクラス,4歳の女の子は保育園のクラス。
6歳の男の子は一生懸命一枚一枚にサインをします(自分の名前を書きます)。4歳の女の子は(まだ名前を書くのはちょっと大変なので),カードの封筒にキャンディーをセロテープで貼り付けるのを手伝います(目の前の誘惑に負け,つまみ食いをして怒られたりも・・・)。
学校の最終日(22日)にクラスへ持って行って,カードの交換が行なわれるようです。
カード作りがなんとか終わって,お母さんは,プレゼントの買い物に行かなきゃと行ってリストを作り始めます。この家は,親戚と親しい友達を含めると,子どもが全部で17人,そして,自分の家族にもそれぞれプレゼントを買うので,これはとても大仕事です。
お母さんは,子どもたちが寝た後に,車のトランクから既に買ってあるプレゼントのいくつかを,そーっと家の中に運び込み,ラッピングをし,“秘密の部屋”にしまいます。
今年はちょっと家の中が忙しくて,まだツリーは出していませんが,
去年と同じように,家族みんなで,お父さんとお母さんがデコレーションをめぐってちょっとだけ喧嘩(?)しながら,最終的には子どもたちが好き勝手に(?),“今年のツリー”を作り上げていくのだと思います。
そして,プレゼントはツリーの下に置かれ,クリスマス前夜にサンタクロースからのプレゼントが置かれ,自分の家,おじいちゃんおばあちゃんの家,親戚の家,あちらこちらで,いよいよ,子どもたちの大好きな“クリスマス本番”です。
始めにも書いたように,今年は残念ながらクリスマス前に日本へ帰りますが,
それでも,今日まで,この街とこの家のクリスマスをいろんな形で楽しむことができました。
それぞれがそれぞれの形で表現され,それが“クリスマスを祝う”というところでひとつになって,それが町全体の雰囲気を作り出す。
もちろん,クリスマスを祝わない人たちも中にはいると思います。が,それらは決してぶつかり合って戦うことはありません。
お互いがお互いを,ひとりひとりがひとりひとりを尊重しているからこそ
それぞれのクリスマスへの関わり方が喧嘩することなく共存できて
そこからこの町にしかないクリスマスの雰囲気が生まれてくる
もちろん,クリスマスに限らず,この“雰囲気”はいつでも変わらないこの町の“性格”のような気がします。そして,そんな暖かいこの町で1年と4ヶ月弱暮らせたことをとても嬉しく思います。
今後のレポートは日本からになりますが,今までと変わらず,こちらでのいろんな気持ちと出来事(&日本での新たな発見も含め)を,少しずつになるかとは思いますが,ひとつずつを共有できる形でお伝えできたらいいなと思っていますので,今後ともよろしくお願いします☆
A Merry Christmas & A Happy New Year
Dec. 19, 2006
Mak@カナダの小さな町より
"記憶力と英語学習" [保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち]

"記憶力と英語学習"
Internationalisation~ 幼児教育と語学習得の現場から(4)
*Mak*
年を取ると,記憶力が悪くなって,英単語が全然覚えられない・・・
これは,半分真実だと思います。
が,語学習得に関しては、大人と子どもには別々の能力があるように思います。
例えば,神経衰弱は子どもの方が強いと一般的に言われるように
子どもは,なんでも無意識・無差別に記憶する能力に長けています。
それに対して,大人は,何かと関連付けて,“狙い打ち”して記憶する能力に長けているのではないかと思います。
例えば「円周率」(3.1415926535...)
これを数字のまま覚えるとするならば,大人は子どもにはかなわないと思います・・・。
しかし,大人には“大人のやり方”があります。
さんてんいちよん異国に婿さん(3.141592653)→ 10桁
産医師異国に向こう産後厄なく産婦みやしろに虫散々闇に鳴くこれにははよういくない
(3.1415926535897932384626433832795028841971)→ 40桁
[フリー百科事典:Wikipedia『語呂合わせ』]
英語を母国語としない人が“英語”を無差別に片っ端から覚えたいのであれば,子どもの時からやるべきで,それは大人になってからでは“間に合わない”と思います。
ただ,やり方次第で,同じ期間の“勉強”で,
大人は子どもよりも英語を使えるようになると思います。
それは,“片っ端から”英単語をAから順番に覚えていくという“勉強”ではなくて,例えば
映画を字幕なしで見たい
小説を原文で読みたい
英字新聞を読みたい
翻訳の仕事に就きたい
ホームステイに来ている留学生とコミュニケーションをとらなければならない
英語のウェブサイトを通して日本では手に入らない品物を買いたい
英語でスピーチをしてくれと頼まれた
それぞれ目的があって,それぞれを達成するためにはそれぞれのやり方があって
長く自分と向き合ってきた大人はそこを“狙い撃ち”するための技術と材料を持っていて
そんな“勉強”の中では,大人は子どもに優る“記憶力”を発揮できる
そういうことなのではないかと思います。
“英語”ができるから世界が“(自然と)広がる”のではなくて
自分の手で世界を“どこにどれだけ広げたい”という明確な目的・目標があるから
そのために英語を身につけたい・使いたいと思う
その“世界の広げ方”は,周りが決めるものではなくて
ひとりひとり違っていてよいはずで
その“ひとりひとり違う”部分を大切にすることができれば
英語はいつからでも学ぶことができ,自分に必要な部分を習得することができる
英語を身につけられる人というのは,“能力・才能”がある人ではなくて
自分が英語を使って何をしたくて,そのために何をすべきかが見えている人なのだと思います。
この学校のESL(English as Second Language)に,一人の韓国人の男性がいました。
彼は,英語を始めた子どもの頃(たぶん中学生くらい),英語が嫌いでたまらなくなり,途中であきらめたと自分で言っていました。現に,2年前に彼が来たばかりの頃を知っているネイティブの人は,どんなにゆっくりはっきり話しかけても,全く通じている様子はなく
「こっちが笑うと彼も笑う」「こっちがうなずくと彼もうなずく」
そんなコミュニケーションだったと振り返ります。
それから1年半後,彼は,大学のプログラム(詳しくはわかりませんが,技術系の)を,ネイティブに混じって,かなりの好成績で修了することになります。
いつからでも,自分が本当にそれをしたいと思うのであれば
英語を使って自分のやりたいことはできるようになる
そんな「英語学習」の意味と可能性を,彼は学校の仲間たちに示してくれています。
子どもの時にそれなりの時間を費やして“まんべんなく”英語を身につけておいて
大人になってから自分のやりたいことが,もしそこにあれば選択できる
大人になって自分に必要な部分が見えた時に,“狙い”を定めて,その必要な部分だけを,もしかしたら子ども時代にやるかもしれなかった期間よりも短い時間で習得する
もちろん,どちらが“効率”がよいかは一概には言えませんが,
自分がしたいことをするための手段としての“英語”に限って言うならば,
時間的にも“英語の質”的にも,どちらもほとんど差はないのではないかと個人的には思います。
「神経衰弱」で子どもが強いと言われるのは,単に“記憶力”の違いだけではなくて
子どもが,大人と神経衰弱をする時の「絶対勝ってやる!」「大人を負かしてやろう!」
そんな圧倒的なモチベーションと,そもそも神経衰弱そのものを楽しむことのできる姿勢があるからで
大人になってからでも,それが自分の本当にやりたいことである限り,そんな圧倒的なモチベーションとそれを楽しむ姿勢は自然と生まれてくるのではないかと思います。
そして,それらがありさえすれば,「神経衰弱」で大人は子どもにも負けないし,
英語に対してそれらを持つことができれば,英語は何歳からでも身につくのかもしれません。
かといって,“だから子どもの時は英語を勉強する必要はない”というつもりは決してなくて
むしろ,“英語教育の低年齢化”には,個人的には賛成です。
“子どもは英語よりも先にすべきことがある”と言う人もいますが,その“先にすべきこと”“全ての子どもにとって最も大切なこと”のひとつが,「英語教育」の中にはあると思います。
次回は,“国際化”と“日本人としてのアイデンティティー,”この問題の中よく取り上げられるこの2つの言葉を手がかりに「英語教育」の可能性をもう少し探って行こうと思います。
"正しい英語"(後編) [保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち]

"正しい英語"(後編)
Internationalisation~ 幼児教育と語学習得の現場から(3)
*Mak*
“英語教育”を売りにしている保育園や幼稚園が増えてきています。
そして,その多くは,小さい頃から“英語の世界”に入ることで,ネイティブスピーカーと同じ音の判別や発音の能力を身につけさせることの必要性を強調しています。
英語そのものに関して,早く(小学校またはそれ以前)から学ぶことのメリットはもちろんあると思います。この音の判別や発音に関しても,子どもは耳も口も発達途中にあるため,音の判別や発音に関する学習能力は確実に大人よりも強いです。
Machado (2002)によれば
聴覚は4~5歳でほぼ大人と同じくらいまで発達し,その後はほとんど発達しない正しい母国語の発音がひととおりしっかりと身につくのは8歳~9歳
とされています。
そう考えたら,この時期に子どもを“英語の世界”に入れることでネイティブスピーカーと同じ音の判別や発音の能力は身につくかもしれません。また,とりあえずこれらの能力が“日本語の世界”で一定の段階まで発達した後に,かつ,まだ脳が(大人と比べて)“柔らかい”と思われる早い時期に英語に触れさせるというのも納得はできます。
ただ,そこまでして日本人が英語の音を“正しく”判別&発音できなければならないのかそれは,少しだけ立ち止まって考えてみる価値があると思います。
前回お話したように,いろいろな“英語”が存在する“中学校で習ったとおりの発音をしてくれない人”に出会うのは,そう珍しいことではありません。
そして,そんな“いろいろな英語”を理解するための鍵は,“正しい英語”とは少しだけ違ったところにあるような気がします。
実際,カナダでの生活の中で,また,これまでの海外(英語圏)での生活・滞在の中で例えばLとR,BとV,SとTHなどを正しく判別できなくても,ほとんどの場合,相手の言っていることは問題なく理解できます。そして,両者を正しく発音できなくても,ほとんどの場合,相手はこちらの言っていることを理解してくれます。
“love”と“rub”の音の違いがわからなくても
“hard”と“heard”の音の違いがわからなくても
“ear”と“year”の音の違いがわからなくても
ほとんどの場合,どちらの単語を言っているのかは話の流れからわかります。
もちろん,だからといって“正しい英語”を勉強することに意味がないというつもりはなく,また,“いろいろな英語があるのだから,通じさえすればそれ以上勉強しなくてもよい”というつもりもありません。
英語を身につけたいと思ったときに,いろいろな“英語”がある中,“正しい英語”を見ようとしすぎてしまうと,自ら世界を狭めてしまうことになってしまうのかもしれない
そういうことなのではないかと思います。
“正しい英語の発音や感覚”は,あった方がよいとは思います。
そして,その感覚や発音は,幼児期であれば,“ネイティブ並に”身につけられるかもしれません。
ただ,その“正しい英語”だけのために“ネイティブスピーカーを目指した英語教育”が必要以上に強調されてしまうと,それは大事なものが抜けてしまった表面的な“教育”になってしまうのではないかと思います。
どれだけ小さい頃から英語に触れていても,どんなに“きれいな英語”を話すことができても,最終的にその“英語”を使うのは日本人であるその子どもたちであって,
彼らは“ネイティブスピーカー”にはなることはできません。
発音や感覚は,コミュニケーションを支えてくれるものであって
コミュニケーションそのものを作るものではありません。
違いを受け入れて理解するところから,コミュニケーションが始まる
それが“正しさ”よりも先にくるものであって,
それを抜きにしては,どんなコミュニケーションも成り立たない
そう考えると
日本人が日本人として英語を使うということ
それは,“日本人がネイティブ並の英語を使えるようになること”とは少し違ったところにあってよいのではないかなと思います。
自分と向き合って,相手と向き合って,お互いの間の“違い”を受け入れる
ほんの少しの違いに敏感で,新しいものに興味を持つ子どもたち
そんな中での“英語教育”には大きな可能性があると思います。
ただ,それが“正しい英語”にとどまってしまったら少しもったいないのかもしれません。
“音に関してはまあ(百歩譲って)よいとしても,記憶力がいい子どものうちにできるだけたくさん英語の単語や文法など覚えておくと後々楽なのではないか”これも,もっともな意見です。
次回は,この“記憶力”と“英語の学習”から話を少し広げてみようと思います☆
引用文献
Machado, J. M. (2002). Early childhood experiences in language arts: Emerging literacy (7th ed.). Albany, New York: Delmar Learning.
"正しい英語"(前編) [保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち]

"正しい英語"(前編)
Internationalisation~ 幼児教育と語学習得の現場から(2)
*Mak*
よく言われますが,日本で教えられている英語はアメリカの多くの人の間で使われている"英語"です。
そして,これもまたよく言われますが,アメリカとイギリスでは発音も使われる単語も違うことがよくあります(両者はAmerican English,British Englishとそれぞれ呼ばれます)。
例えば,両者の間で,言葉の使い方・発音の違いはこれだけ(これ以上)あります↓
英語タウン『イギリス英語vs.アメリカ英語』
http://www.eigotown.com/ryugaku/longstay/special/uk_vs_us.shtml
週刊STオンライン『イギリスの発音,アメリカの発音』
http://www.japantimes.co.jp/shukan-st/special/tomato/pr-menu.htm
スペルについても,例えば"センター"は,アメリカではcenterですが,イギリスではcentre
"インターナショナリゼーション"も,interanationalization, internationalisation
と変わってきます。
同じように,オーストラリア人の話す英語はAussie English,ニュージーランド人の話す英語はKiwi English,カナダでは,Canadian Englishと呼ばれます。
また,英語が母国語でない国の人たちの"英語"にも,Indian English, African American English,Chinese Englishのように,それぞれに名前がつけられています。
そんないろいろな"英語"
カナダでの生活の中で,そのいくつかと出会う機会がありました。
今,この学校には,大学の単位を取りに来ているナイジェリアからの留学生がたくさんいます。
ナイジェリアでは英語が公用語になっているため,基本的に彼らは英語をとても流暢に話すのですが,それは今までどこで聞いてきた"英語"とも違っていました。
そんな彼らの"英語"
この留学の初めの時点で,ホストファミリーや学校の先生たちの"英語"はだいぶ聞き取ることはできていたのですが,彼らの"英語"は全く聞き取ることができませんでした・・・。
それでも彼らは,先生・友達とほとんど問題なくコミュニケーションをとっているようでした。授業中や学校生活の中,たまにお互いに聞き取りづらかったり伝わりにくかったりすることはあるようですが,そのことは彼らの間でのコミュニケーションの中ではそれほど大きな障害にはなっていないようでした。
当時は,まだまだ"英語力"が足りないなー・・・とそんなことを思っていたのですが,
今になって改めて考えてみると,それはどうやらちょっと違っていたようです。
そんな違う"英語"同士でもコミュニケーションが取れるのは
お互いが,お互いの言葉が"違う"ということを理解しているから
そしてその上で,お互いがお互いをできるだけ理解しようと"努力"しているから
例えば,"first floor"はイギリスでは2階,アメリカでは1階のことを指しますが
もし両者が"first floor"で待ち合わせをして,それぞれ2階と1階へ行ってしまったとしても,お互いがお互いの"違い"を知っていれば,1階と2階の間を行ったり来たりすればそのうちに会うことができます。
知らなかったら喧嘩になるかもしれません。
同じように
"日本人はLとRの発音が苦手で,時々同じ発音になってしまう"と理解しているだけで,
"日本人は,YesとNoの使い方が時々反対になる"と知っているだけで,
それだけで発音による誤解&余計な気まずさはほとんどなくなります。
例えば,夕飯でホストマザーに"Don't you like it?(その料理,もしかしてあんまり好きじゃない?)"と聞かれた時,日本語の感覚だと
いいえ,好きです:"No (I like this)."
はい,あんまり:"Yes (I don't like this very much)"
ですが,それが英語だと
いいえ,好きです:"Yes (I like this)."
はい,あんまり:"No (I don't like this very much)"
となります。
どちらが"正しい"とか,どちらが"合わせるか"ではなくて
誰も何も責めるべき責められるべきことではなくて
その"違い"を知って受け入れるところからコミュニケーションが始まる
"相手と同じ言葉を使わなければならない"というところから一歩踏み出して
"通じればそれでよい"というところからもう一歩踏み込んで
自分の言葉と相手の言葉の"違い"を受け入れる
そこに,"それぞれの言葉への最低限の礼儀"があるのではないかと思います。
最近だいぶ彼ら(ナイジェリア人留学生たち)の英語がわかるようになり,会話も続くようになってきましたが,それは,単に"英語力"が上がったから,だけではなかったのかもしれません。
"英語力"とそれをサポートしうるもの
次回,"子どもの発達"を踏まえながら,"正しい英語"と"英語教育"の話をもう少しだけ続けます☆
「小学校英語の必修化」 [保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち]

「小学校英語の必修化」
Internationalisation~ 幼児教育と語学習得の現場から(1)
*Mak*
先日新しく就任した伊藤文明文部科学大臣の発言が,話題を呼んでいます。
そこで,一旦本編はお休みして,「幼児教育」と「英語習得」の両方に深く関わるこの話題を少し掘り下げて,今考えていることを書いていこうと思います(前回の"Open-ended"の続きは,この後にレポートすることにします)。
話題になっている伊藤文明文部科学大臣の発言とは,次のようなものです。
小学校5年生以上の英語必修化について,
「必須化する必要は全くない。まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメ」と必修化に慎重な考えを示した。
文科省が実施した市民からの意見募集でも必修化に消極的な意見が約4割を占めており、今後論議を呼びそうだ。伊吹文科相は、英語教育よりも最低限の素養や学力を身につけさせることが先決だという認識を示した。
[毎日新聞 http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060928k0000m010088000c.html]
実際,"必修化"とは言っても,"小学校5,6年生を中心に週1時間程度"というような形であるようですが("教科化"になると,国語や算数と同じ扱いになるようです),この"小学校英語必修化"について,また,"英語教育の低年齢化"について,様々な議論があります。
Benesse 教育情報サイト『小学校英語の必修化、保護者の立場から気になること(1)』
http://benesse.jp/blog/1/16/152.html
英語タウン 『小学校での英語必修化,あなたはどう思う?』
http://www.eigotown.com/poll/200605/
文部科学省 教育課程部会 外国語専門部会
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/015/06032708.htm
そんな様々な意見を大雑把に分けてみると,次のようになります。
●賛成派:早い方が良い,発音・聞き取りで有利,"国際化社会"の中で将来必要,今までの中学からの勉強で英語を使えるようになっている人がほとんどいない
●反対派:"正しい日本語"を教えるのが先,"きちんと"教えることのできる先生がいるのか,英語は全ての日本人にとって必ずしも必要でない
その他:話せるにこしたことはないけど・・・,やり方次第
これまで,この話題(英語教育の低年齢化)に関する議論が起こるたびに,賛成とか反対というよりも,なんとなく"もやもやしたもの"があって,なかなかその"もやもや"の正体がわからなかったのですが――
これまでのイギリス,ニュージーランド,そして,今のカナダでの生活の中,英語は常にコミュニケーション・生活の一部であり,そんな中,決して"完璧"とは言うことはでないものの,ようやく自分の"英語"が"使えるもの"になってきたかもしれないと感じることができるようになってきて
そして,今,ここでの勉強を通して,「幼児教育」の理論と現場も,少しずつですが見え始めてきて
「子どもにとっての外国語」
「英語習得」と「幼児教育」の両方の"現場"から,
この言葉の持つ意味と意義が,自分の中で少しずつ整理されてきた気がします。
結論から言ってしまうと,
"英語"によって,子どもはとても大切なものを得られると思います。
ただ,それはたぶん"英語そのもの"ではありません。
この"英語そのもの"を考えた時&英語を勉強する時に必ずと言っていいほどついてくるのが,"正しい英語。"次回はなんとなくわかりやすそうでなんとなくつき合いにくいこの言葉,"正しい英語"の持つ意味を考えてみたいと思います。
"Open-ended"(2)~Assignmentsと自分と先生と [保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち]

"Open-ended"(2)~Assignmentsと自分と先生と
*Mak*
前回,"Open-ended"と"Closed-ended"の話をしましたが,その続きです☆
記憶力や特定のスキルを駆使して,ひとつの決まった答えやゴールへ向かうのが"Close-ended"
思考力や創造力を駆使して,可能性を探り,自分だけの答えやゴールを見つけるのが"Open-ended"
これらの言葉が自分の中に自分のものとして納まった(と思われた)時
自分が今やっている"勉強"はどうなんだろう
とふと思い,改めてこれまでを,やってきたassignments(課題)を中心に振り返ってみました。
今これを書いている時点で,今の学校で幼児教育の勉強を始めてからほぼ一年(4学期)になります。そして,その間,(数えたら)15教科で145個(・・・)の課題をやってきました。
どれもこれもかなり必死でめいっぱい仕上げて乗り越えてきたので,
いつ,どの教科のどの課題で何を書いたかまでかなり鮮明に覚えていて,
ひとつひとつの課題それぞれに強い"思い入れ"ができています。
そんなたくさんの課題の中で,"自分の考え"の入らない,誰がやっても解答が同じになるべき"Close-ended"な課題は,改めてひとつひとつ振り返ってみても2つしかありませんでした。
どちらも"教科書の何章~何章までを読んで次の問に答えなさい"というもの。
○×式だったり,選択式だったり,記述式だったり
教科書の範囲は150ページくらいで,問題の量もあるので,もちろん大変は大変だったのですが,とにかく教科書を読んでさえいればそのうち"答え"が見つかるし,たとえその時見つからなくても,採点されて返ってきた時に,できたものできなかったもの含めて"答え"を見れば,最終的に得られるものは同じなので,点数さえ気にしなければ(今思えば)実際やるのは結構気楽だった気がします。
残りの課題たちの中には,次のような"Open-ended"なものがたくさんありました。
あなたの住んでいる町に引っ越してきた小学校4年生と6年生の子どもを持つ家族が,地域の"Physical Education Program(子どものための地域のスポーツクラブのようなイメージ)"を探しています。この家族のニーズに応えられるような,この年齢の子どもたちの発達をサポートするための"Physical Education Program"を考え,"Physical Educationに対するあなたのPhilosophy(哲学)"も含め,この地域の掲示板に貼るビラを2ページ以内で作りなさい。[1]
5歳の男の子の両親が「うちの子はいつもハイヒールやドレスばかりで遊んでいて・・・」と,その子どもの遊びが"ホモセクシャル"の兆候なのではないかと(心配していることを)あなたに相談してきました。そこで,あなたがプロのEarly Childhood Educator(幼児教育者)としてどう応えるか,そしてその語のやりとり(会話)も考えて書きなさい(創りなさい)。[2]
Early Childhood Educatorとしての「家族との関わり方」に関するあなたの"Philosophy"を書きなさい。[2]
保育園(幼稚園)の子どものための絵本を作りなさい。[3]
*コースガイドより抜粋,[番号]は引用文献
もちろん,これらの課題をするために必要な知識や情報は教科書や授業の中で出てきます(例えば「学齢期の子どもの発達」,「保護者とのコミュニケーションの取り方」,「絵本が子どもに及ぼす影響」など)。
でも,それだけではこれらの課題は終わりません・・・
教科書や授業から得られる基本的な知識や技術という"土台"
そこにできるだけ"自分"を乗っけて,そこから"自分"を表現する
それが課題のいろんなところで出てくる(もしくは隠されている)
"Philosophy(哲学)"
という言葉の意味なのかもしれない
それに気づいたのは,最初の"課題"に出会ってから数ヶ月が経とうとしていた頃のことでした。
自分の考えでも経験でも希望でも,何か一つでも"自分"がそこに絡まることができると
"勉強"はあっという間にとても"楽しい"ものになる
そんなことを改めて実感したのもその頃でした。
それから今まで
自分の外側の客観的&一般的なものよりも,すべて今自分の内側にあるもの
自分と向き合い,自分を深く掘り下げ,そんな自分から出てくるもの
そんなすべてを,課題や授業を通してひとつずつ表現してきました。
そして,表現された"自分"は,それで終わりではなくて,
できあがった課題,そこに"先生"からのフィードバックやコメントがついて戻ってきます(もちろん採点もされます)。
課題や授業を題材として表現された"自分"に,外からの客観的な目が入る
自分の今立っている場所,自分が自分のものとして今持っているものを,
自分の内側と外側の両方から確認することができて
そこを出発点として,"今の自分"と一緒にそこから次へ向かうことができる
"正解"があるわけではないので,先生もただ"答え合わせ"するというわけにはいかず
表現する方もそれに応える方も,とにかく"必死"にやりとりをする
きっと,そんな"やりとり"があったからこそ
いつ,どの教科のどの課題で何を書いたかまでかなり鮮明に覚えていて,
だから,ひとつひとつの課題それぞれに強い"思い入れ"ができているのだと思います。
"そんな"思い入れ"とともに,たくさんの課題の中で出会った"そんな"場所"に立ち戻りながら,今,「保育士(or幼児教育の先生)」になろうと勉強している自分の置かれている立場は,「幼児教育」の中にいる「子ども」の立場と同じかもしれない
そんなことも思いました。
自分が"学んでいる"という感覚
自分がめいっぱい表現したものと,それに対する先生の反応
そして,自分に必要なもの,自分が求めているものが"身についている"という感覚
"学び"と"学び"をサポートし得るもの
そんな"生徒"としての経験が,自分が"先生"になった時に
とても大きなものになって返って来るのかもしれません。

実際,今(主に課題を通じて)自分がもらっている各教科の先生たちのコメントやフィードバックなど,先生たちの生徒への"対応"は,今,自分が教科書や授業で学んでいる(子どもたちに対する対応)そのままであると感じることがとてもあります。
次回は,そんな「学びをサポートする側」に立った時に出てくるキーワード"Positive, Specific, & Objective"についての話をしようと思います☆
引用文献
[1] ECTA101 Introduction to life-span development: for distributed education studies. (2005). (rev.ed). Fort St. John: Northern Lights College ECE/EA Department.
[2] ECED112 Interacting with families: for distributed education studies. (2005). (rev.ed). Fort St. John: Northern Lights College ECE/EA Department.
[3] ECED113 Language and literature for young children: for distributed education studies. (2005). (rev.ed). Fort St. John: Northern Lights College ECE/EA Department.
“Open-ended”~スタートラインとゴールライン [保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち]
"Open-ended" ~ スタートラインとゴールライン
*Mak*
いきなりですが
おもちゃ : ジグゾーパズル と 積み木
紙とペンで : 塗り絵 と お絵かき
月曜日に : 「週末は楽しかった?」と「週末はどうだった?」
絵本を読んで : 「桃太郎の家来になった動物は?」と「もし桃太郎が別の動物を家来にしていたら?」
前者(ジグゾーパズル・塗り絵・「週末は楽しかった?」・「桃太郎の家来になった動物は?」)と
後者(積み木・お絵かき・「週末はどうだった?」・「もし桃太郎が別の動物を家来にしていたら?」)の間には線が引かれます。
前者に共通するものと,後者に共通するものが,それぞれあります。
それぞれが,「子どもの成長」の中でどんな役割を果たすと考えられるか
という視点から
"答え(共通するもの)"は1つだけではなく,たくさん出てくるかもしれません・・・
言葉だけで定義すると
前者は"close-ended"materials(もの)/questions(質問)/activities(活動)
後者は"open-ended"materials/questions/activities
と呼ばれます。
初めて(教科書で)この言葉に出会った時は,「ふーん」とは思いながらも
実感としては特に大きく動かされるようなものはありませんでした(要するに,よくわかりませんでした・・・)。
が,その後いろんな場所,教科書や実習の中で繰り返し出てくるこの言葉に出会いながら
その意味が実感として自分の中に収まってきました。
意味は,言葉のとおりで,"終わり"が"閉じて"いるか"開いて"いるか
例えば,ジグゾーパズルを"完成"させるために必要なのは――
・手先の器用さ(パズルをつかんだりはめたりするための)
・基本的な色・形・模様に関する数学的知識と概念(「この色と形はここにはまりそうだ」etc.)
知っているか知らないか,できるかできないかが,
"完成形"を持っている「ジグゾーパズル」では大きく作用してきます。
それが積み木であると,"決まった何か"を"完成"させる必要がなくなります。
年齢や発達段階に関わらず,子どもたちは自分のできる範囲で好きなことをする(or好きなものを作る)ことができて,
「何を作る(作品)」かより「何をする(過程)」かが大切になってきます。
"既に描かれた枠"の中に色をつける「塗り絵」と"何でも"描ける「お絵かき」にも同じような事が言えます。
もちろん遊び方・やり方次第で可能性はいろいろありますが,一般的にはこのように区別されています。
質問であれば,
Yes/Noで答えられるもの,または,決まった答があるものが"close-ended"と呼ばれ,答える人次第でいろいろな答がありうるものが"open-ended"と呼ばれます。
楽しかった? → はい / いいえ
どうだった? → 楽しかった / 疲れた / 面白かった etc.
記憶力や特定のスキルを駆使して,ひとつの決まった答えやゴールへ向かうのが"Close-ended"
思考力や創造力を駆使して,可能性を探り,自分だけの答えやゴールを見つけるのが"Open-ended"
言うまでもなく,大人が何をせずとも子どもは自分のやり方でどんどん自分で探検して発見して世界を広げて行きますが,一方で,特定の"知識や技術"を身につけた上で,その先に広がる世界があるのも事実です。
なので,どちらがよいかというよりは,子どもの発達にはどちらも必要で,両者のバランスをどのように取ることができるかという問題になるようです。
とはいえ,実際,教科書や幼児教育の現場では"Open-ended"がかなりの割合で強調されています。
それは,今の「学校教育」や「社会」が全体的に"Close-ended"に偏りがちであるために(カナダでも)"Open-ended"がより強調されなければならないということなのかもしれません。
特に幼児教育の現場ではそれを強く感じます。
実習で子どもたちと一緒に何かをする時も,
「やるのは子どもたちだから,"あなたが"がんばっていろいろやる必要はないのよ」
と言う先生たちとたくさん出会いました。
もちろん先生たちも"がんばり"ます。
それは子どもたちの前で"特別な何か"をするのではなくて,ひとりひとりが何をしているか,何に興味を持っているか,どの発達段階にいるか(何ができて何がまだうまくできないか)を遊びや活動のなかでしっかり把握する(一言で言うと"観察"という言葉になります)
そして,それができると,それらをそのまま次の"活動"につなげることができる
年齢も発達段階も興味も違うひとりひとりの子どもにとって"同じ活動(時間)"をどれだけ意味のあるものにできるか
子どもの数だけ"答え"がある
それを言葉だけでなく,どのように実践することができるか
それが"教育"の最も大変なところであり,また最も楽しいところなのかもしれません。
子どもひとりひとりが"特別"であることをふまえ,"教えられること(伝えられること)"を教えた(伝えた)上で,そんなひとりひとりのそれぞれの"特別なもの"が自然と出てくるような雰囲気を(物質的にも精神的にも)作り出す
"教師は子どもに教えることよりも子どもから教わることの方が多い"と言うことのできる先生たちは,そんな人なのかもしれない
と,この"Open-ended"という言葉のもつ意味に出会ったときに,ふと思いました。
みんなが同じところからスタートしても
それぞれが自分の好きなところにゴールをみつけてそこへ向かうことができるということの意味
それは,自分自身,今までたくさんのいろいろな(幼児教育の)科目の課題をやってきてとても強く感じていることでもあります。
次回,そんなこれまでやってきた課題のいくつかを紹介しながらもう少しだけこの話を続けます☆
"Diversity" ~ "モザイク国家"と子どもたち [保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち]

"Diversity" ~ "モザイク国家"と子どもたち
*Mak*
幼児教育の教科書を読んでいると,
どんな科目のどの章でも必ずと言っていいほどこの単語に出会います。
初めは何故こんなにも出てくるのか,ピンときませんでした。
カナダは"モザイク国家"と言われます。
こちらに来る前までは,その意味も実際もよくわからず
カナダにはいろんな人(たくさんの民族)が住んでいるけど
ひとつの国としてしっかりまとまっているんだ
と思うくらいでした。
なぜ,そう言われるのか
具体的にどのように"いろんな人"をお互いに受け入れて
それぞれ暮らしていけるのか
そんな答えになるかもしれないことが,
この国の幼児教育の中にちらりと見えた気がします。
「人それぞれ」をどうやって体に染み込ませるのか
物質的には,例えば保育園にて
人形:様々な民族のものを置く(肌の色,髪の色,目の色,着ている服など。もちろん男女とも)
音楽:様々な国・文化の音楽,楽器を準備する
ラベル:子どもたちの母国語(英語,フランス語,スペイン語etc.)でそれぞれ書かれているか
その他,ブロック,絵の具,クレヨン,画用紙に至るまで細かくいろいろと
カナダ(ブリティッシュコロンビア州)の幼児教育での"共通認識"があります。
そして,精神的には,例えば以下のような子どもの質問・発言にどのように答えるか
3歳の女の子が先生に:
「○○ちゃんが,私はいつもプロレスごっこばかりしてるから,私のことを女の子じゃないって・・・」
保育室で,園児たちが,パンジャブからきた女の子が持ってきたお弁当を見て笑いながら:
「そんなのほんとに食べるの?」
6歳の男の子が描いた家族の絵を見て,他の子ども達が:
「その絵,変だよ。お父さんが二人もいるわけないじゃん」
4歳の男の子が,隣の家のおじいさんを見て,お母さんに:
「僕,あのおじいさんと話したくない。だってなんか変な顔してるし,もうすぐ死んじゃうんでしょ」
差別になるからと話題に上るのを避けることをせず
子どもには難しいからと逃げることもせず
真っ向からぶつかって受け入れる
子どもたちに分かる言葉で一つずつゆっくりと
子どもがなぜそう思うのかを受け入れて
わかるようにわかるまで"説明"していく
そんな姿勢を,この国の"幼児教育"の中に感じました。
上の質問に対して,言ってはいけないことはいくつかありますが,明確な"答え"はありません。
"人はみんな違うけど,みんな同じ"
基本的な"姿勢"さえ間違っていなければ,答え方も人それぞれでよいのかもしれません
最後の質問には(半年くらい前くらいの授業で)苦しみながらこう答えてみました
Who doesn't look funny for you? Why do you think he looks funny? Everyone looks different, and our looks are gradually changing everyday, like your hair and body grow everyday. You know every person dies some day, but we never know when he/she dies. Everyone lives everyday eagerly, but unfortunately, many people die at young ages, by accident or illness. So you will be very happy when you can be old. It's never funny but very proud for human.
今答えたら,また違った答が出てくるかもしれません。
カナダは"モザイク国家"と言われます。
そして,そこには,アメリカの"人種のるつぼ"とは違う意味が込められている
日本語の"モザイク"には多少ネガティブなイメージもあるかもしれませんが
もともとモザイクとは,"ガラス・貝殻・エナメル・石・木などをちりばめて,図案・絵画などを表した装飾物"(広辞苑より)
いろいろなものが集まって1つの芸術を作り出す
カナダに来て,幼児教育の教科書と現場で"Diversity"という言葉にたくさん出会って,
それが今の自分の中にちょっとだけ入ってきた時
ほんのちょっとだけですが,この国の大切な部分が見えた気がしました。

そんな「人それぞれ」は"環境"や"先生の受け答え"だけでなく,実際の幼児教育の毎日の"活動"の中でもいろんな形で組み込まれています。次回は,そんな"ひとりひとり"を尊重するためのもう1つのキーワード"Open-ended"に関するお話です☆
TheFirst Day of my Practicum~“ひとりひとり”との出会い [保育士のタマゴが見た海外のKODOMOたち]

The First Day of my Practicum
~ "ひとりひとり"との出会い
*Mak*
実習初日,"実習生"としての自分の存在を必死に支えながら
自分に何ができるだろう,と部屋の隅っこに立ちながらめいっぱい頭を働かせていました――
前回簡単に紹介しましたが,このプログラムには,全部で3つの実習があります。
今回は,その最初の実習。
基本的には,週7時間(基本的には週2日,3時間半ずつ)が9週間
そして,週35時間のフルタイム(月~金,毎日7時間)が1週間
1月末から始まって4月の上旬まで,計10週間の実習で,毎週1回,電話にて授業があります。
最初の実習先として選んだのは,同じカレッジの中にあるデイケア(※注)。
このデイケアは,「幼児教育」のプログラムが通信教育になる前(キャンパスで授業が行なわれていた頃)はたくさんの実習生が訪れていたということもあり,カレッジともつながりが深く,スタッフも保護者も「実習生」の状況をよく理解してくれています。
――しばらくの間,部屋の隅っこに立ちながら何ができるかを必死で考えていましたが,いつまでもどきどきしながら考えているだけではどうしようもないので,とりあえず動くことにしました。
部屋には,それぞれ自由に遊ぶ8人の子どもとそれを見守る3人の先生たち
先生たちとは少しは面識はあったものの,子どもたちとは初対面・・・
そして,言葉も違えば,この国の多くの子どもが共通して持っているであろうバックグラウンドもまったく見当がつかない・・・
そんな中。まず,言葉が違おうが文化が違おうが,全世界の子どもが間違いなく持っているだろうもの(を決めつけました)
・ 初対面の大人(しかも外国人)には,興味もあれば恐怖感(or違和感)もある
・ 子どもは自分のしている遊びを邪魔されたくない時間と,誰かに見てもらいたい瞬間がある
・ 笑顔は大事
それをもとに,今の自分にできること
・ 常にひとりひとりの子どもに目を走らせて,誰がどこで何をしているか常に把握
・ そんな中,子どもと目があったら,とりあえず笑う(笑顔)
・ その後(2回目以降)目があった時,子どもから出ている全ての"オーラ"を感じ取り,近づけそうであれば(自分の感覚を信じて)歩いていって隣に座り,"What are you doing?"と聞いてみる
ということで,目立ちすぎずかつ子どもからちょっと目に付きやすい場所に座り(立っていると存在が大きくなりすぎるので),ひとりひとりに目を走らせ,同時に神経をできるだけ研ぎ澄ませ,子どもたちの雰囲気や"言葉"以外の言葉に耳を澄ます――
数分後,パソコン(幼児用教育ソフト)をしていた1人の男の子と目が合いました。
「そこで何してるの?」って心の声が聞こえた気がしたので,「にこっ」として(「みんながどんな遊びをしてるか見てるんだよ☆」ってテレパシーを送って)1回目は終了。
そのあとすぐに再び目が合いました。
今度は「もし暇だったら見に来てもいいよ」ってオーラが出ていたので,再び「にこっ」と(「ほんと?」ってテレパシー送って)歩き出して,その男の子の隣に,同じ目線で座りました。
さて,と思い,"What are you doing?"と聞こうとしたら,その前にその男の子が言いました。
"This is a magic crayon."
彼はパソコンの画面上で"塗り絵"をしていました。そして"magic crayon"とは,そのクレヨン(マウスで動かす)が絵の上を通ると自然と色を塗り分けてくれるというところから出てきているらしいこともわかりました。
へえーっと思い,でも,感心だけしているわけにもいかないので,これまた「にこっ」として
"That's cool."
"Yeah"と彼。続けて,"This is a space ship" と,ちょっとだけにこっとして彼は言いました。
とっさに言葉が出なかったので,"You painted a space ship!"と言い換えると
彼は再びにこっとして,次の画面に移り,塗り絵を続けました。
人と人とのコミュニケーションの中で,いわゆる"言葉"が占める割合は多くても3割程度と言われています(Wood & Henry, 2002)。
もちろん"言葉"は大切です。言わなければわからないこともたくさんあります。
でも,たとえ話さなくても(話せなくても)残りの7割でお互いに感じられる部分はたくさんある
それは「言語」と「非言語」,どちらが良いかという問題ではなくて
使えるものの存在に気づきそれを使えるだけ使うと目の前のコミュニケーションがより豊かになるかもしれない,ということ
"わかってもらう"ことを期待しすぎず,自分が一番伝えたいことを伝えられる限りの方法で伝える
ひとつひとつのコミュニケーションに対して手抜きすることなく
あらゆる手段を使って目の前のものを自分の中に取り込み,自分の中のものを表現する
そんなコミュニケーションの中では,たくさんの"言葉"も,ほんの一瞬の"笑顔"も
同じだけの価値を持ち,同じだけの力を持つのかもしれません。
そして,たとえあまり"手段"を持っていなかったとしても
基本的なところで常に周りに対して"開いて"さえいれば,どこかでコミュニケーションの入り口が開けてきて,お互いの(みんなの)関係の中で自分の"居場所"が自然とできてくる
それは,今まで日本でも海外でも,毎日の中で常に学び続けてきたことです。
結局,この日の3時間半で,8人の子どもたちそれぞれと,"自然な流れ"の中,遊びを通じて1対1で関わることができました(おかげで名前もすんなり覚える事ができました)。
この日は8人でしたが,実際,このデイケアに登録している子どもの数は21人。
まだまだ"最初の出会い"は続きます。
基本的な"姿勢"と"手段"が同じでも,
コミュニケーションの中身は,当然ながらひとりひとり違います。とても違います・・・
そんな,ひとりひとり違う中,その違いをどう受け入れて,
どのようにして共通するものを見つけることができるのか
その手がかりは,教科書と授業の中にありました。いろんな人々(人種,民族)が集まって,その上でひとつの国として機能している,そんなこの国の"土台"となりうるもの。
次回は"Diversity,"そんなカナダがモザイク国家と言われる所以に迫ります☆
引用文献
Wood, J. & Henry, A. (2002). Everyday encounters: An introduction to interpersonal communication (2nd Canadian Ed.). Scarborough, Ontario, Canada: Nelson.
※注:
日本の「保育園」「幼稚園」が違うように,こちらでも子どものための施設はいくつか種類があります。
Daycare:基本的に朝から夕方まで子どもを預かる,働く親のための,日本で言う「保育園」
Preschool:保育園と訳されることもありますが,実際は子どもを預かる場所というよりも子どもが"教育"を受ける場所としての「幼稚園」な雰囲気です。
Kindergarten:日本では「幼稚園」として知られていますが,アメリカ&カナダでは,小学校に付属している所が多く,基本的に就学前1年で小学校へ上がる準備をする教育施設になるようです。
ただ,国によって制度は違うので,これはアメリカ&カナダでの一般的な説明になります。
もちろん,例えば日本の「保育園」にいろいろな形があるように,こちらでもそれぞれの施設が制度の中でそれぞれ独自の形を持って運営されています。
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