戦争映画の限界、史実を描く難しさ -「君の涙、ドナウに流れ」の場合- [映画]
今年は例年に無く映画館に足を運んだ年だった。恐らくは2ヶ月に1回のペースだったろうと思う。映画マニアの人からすれば、鑑賞数は足りないなどと思われるかも知れないが、実のところ当たり外れが大きいことも分かり、かなりその点で用心深くなっているのは事実。本当は色々観たい思いはあるのだが、鑑賞後を想像すると「?」となるのである。個人的には社会派的な作品が好みなので、先ずその意味から云っても選択肢は限られてくる。然し、社会派的作品も度重なってくると食傷気味になり、しばらく観ないでおこうと思うようになるものだ。結局のところ、これはどんなジャンルの作品でも基本は同じことなのだが、一つのジャンルの中では描き方が均質化しているというのが見て取れる様になると、映画というものもつまらなさが出てきてしまうものだ。それを既視感などという言葉でまとめてしまうのはぶっきらぼうかも知れないが、パターン化されると退屈になるのは否めない。
こんな前置きをした上で、先日観て来た映画の話をする。先日の作品は「君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956」というものだ。この作品についての感想・評価は他のブログでも様々だが、やはり辛口なものが多いようだ。あるブログでは、そもそもが「見た後の感想に困る」などというコメントにまでなっている。良否・善悪を判断しにくいという意味で複雑であり、感想に困るという話だ。例えばこの作品の場合なぜ感想に困るのかというと、端的に云えば史実にフィクションを混ぜて見せることは焦点がボケてしまいかねない危険があることによる。監督が史実に軸をおくのかその中に混ぜ込んだフィクションの部分に力点を置くのかということで随分と見え方が異なってくるのである。ハンガリー動乱で民衆運動の先頭に立った主人公の女子学生ヴィキと彼女に惹かれて自らも運動に加わる同国の水球選手との運動を通した純愛が描かれているのだが、その純愛に燃える姿を描きたかったのか、動乱の歴史的実態を伝えたかったのかが曖昧な感が残ったのである。これは、4ヶ月前に鑑賞した「ドレスデン-運命の日-」と共通する話である。「ドレスデン~」にしても戦火の中で燃える男女の愛というパターンが出来上がっていたわけで、今回も同じものを見せられた気がした。
物語は、オリンピック・水球のハンガリー代表とソ連のチームの対戦シーンから始まるのだが、ソ連が卑怯な手でハンガリーに勝つというのは、当然にハンガリーがソ連に抵抗するための一つの象徴的なシーンになっている。主人公の一人で水球選手のカルチは、通学する首都ブダペストの大学で反ソ連の学生運動に出くわし、そこでヴィキと出会う。カルチ自身は水球のことが自分の生活で最も大切なものであり、学生運動には関心は無かった。しかし、ヴィキとの出逢いが次第に彼を変えてゆく。ハンガリーという弱小国家ということでソ連から蔑まれていることについて、水球という競技の中にも自らの内側に潜んでいたナショナリズムに目覚めて、ヴィキとともに運動に身を投じていくことになるのだが、そこに至るまでのカルチには様々な葛藤が生じる。自分の取り組んでいる水球に対する情熱と、カルチの家族、特に祖父からの短い中にも凄味を思わせる訓戒の間で、次第に水球というレベルを超えたところでハンガリーへの愛国心を燃やしていく。
ハンガリーも共産圏からの独立を志す国だったが、これを阻止するためにソ連は時のハンガリー首相ナジを恫喝しこれを傀儡政府にしてハンガリー民衆に恐怖と混乱をもたらす。学生をはじめとする民衆運動に参加する者たちを、密告を奨励しながら次々に虐殺してゆく。首都市街地における一斉砲撃のシーンはそれなりに迫力のあるものだったが、当時の実際はこんなものでは済まない光景だったはずで、迫力はあったがリアリティーが今一つといったところか。最近の戦争映画は、とにかくリアリティーを追及したものが多いが、このあたりはスピルバーグの方が描き方は上手だと思う。実のところ戦争映画というのは手法自体はベタなところがあり、爆撃も空爆・市街地戦が基本なので、やることは大体決まる。だからこそ難しいのではあるけれど、もう少しいかにも戦争でございますという手法は何とかならないだろうかと思ったりした。そして、折角ハンガリー動乱という歴史的な事実を描いているのだから、ナジ首相の存在感を出してくれても良かったと思う。学生運動が高まっていった流れが歴史的なタッチで描き切れていないのが残念だ。ハンガリーのワルシャワ条約機構からの脱退とこれを無視して軍事介入してきたソ連の暴虐の実像が盛り込まれれば、動乱の実像ももっと鮮明になるのにということなのだ。カルチとヴィキが同士としての結束を持つに至るには、カルチ自身がそれまでこだわってきた水球のチームのことを振り切ってでも祖国への愛国心を高めなければならないところだが、その部分の描き方が未だ弱い。ソ連チームに卑怯なやり方をされて負けたことによる私憤のレベルでの愛国心だけで、運動に加わっていったとしか見えないが、当時の運動参加の動機などというものはそんな甘ったるいものではなかったのではないか。何しろ、密告だの秘密警察だのという恐怖が常に付き纏いながらの生活の中で、命を懸けて戦わなければならない、それが抵抗運動なのだと考えると、作品の描き方はもっとシビアでなければならなかったと思う。
以上、簡単に作品についての感想を書いたが、とにかく史実を描くのは難しいことだと思う。大河ドラマでもそうだが、私たちが歴史の教科書で知っている内容は、それはそれで史実として受け止めて一定のイメージを持ってしまっているので、その実際がどうであったのかということを視覚的にとらえるときに、「えっ、そんな状況だったのか」みたいなことで、本で読んだものとはまた違うイメージが加わる。そして、同じ出来事について何種類かそういう視覚的な学習体験を積むようになると、「今度の描き方はどうなんだろう」という眼で見る。そしてこの段階で、余りに作り過ぎているのが分かったり、物足りない描き方だったりするとそれだけで興醒め感が出てくるのだ。そういう鑑賞者の心を掴むためには更なる工夫が必要なのであり、それがゆえに史実は大変難しい素材なのだと思う。誰もが知っている本能寺の変の事実をどう捉えるかっていう話なのである。今回の作品をもって、私はしばらくは戦争映画からは距離を置く積りだ。余りにパターン化し過ぎているのを何度も見せられるのもちょっとねえ。
映画評 「善き人のためのソナタ」 -生の証としての"自由"を得るために闘ったドイツ市民の物語- [映画]
私は先にこのブログにおいて、今年は映画鑑賞を自分の趣味の一つに定着させたいと書いてきたが、この頃はやっと本当に定着してきたという感覚がある。別段水野晴郎氏の言葉を借りるわけではないけれども、やはり映画は良いものだ。映画の世界には日常では味わうことの出来ないものがあるのがしみじみとわかる。単純にスクリーンを通してそこに映し出される様々なものを観るわけだが、描かれたものが何であれ、観入っていくうちにその世界に自分自身が同質化していく感覚の何と幸せなことか。映画の中の世界は、それがフィクションであれノンフィクションであれ、観る者の五感、時には第6感までも刺激してくる。これはごく当たり前な話なのだが、映画というものはそれを観る者に対して「こんな世界をお前はどう観るのか」といういわば単なる鑑賞眼を超えた世界観・社会認識を問いかけてくるものだと私は思う。勿論、これは社会派的な作品を観た場合の話であるが、とにかくこれまで映画館に足を運んで観た作品はいずれも社会派の作品ばかりであり、今のところそれ以外のジャンルにはなかなか食指を伸ばす気になれない。要は、人間いかに生くるべきかというような哲学的な問題意識から始まって、その問い以上に、自分自身の日常の生活感覚を問い直してみたいという欲求へとつながるものとして、映画鑑賞を一つの大きな手段に取り入れているというのがこの頃の私の映画鑑賞作法になっているという思いがある。
そんな前置きをした上で、今回も映画の話。今回で鑑賞作品が5つ目。3日前に職場の最寄り駅付近の映画館でその作品が上映されていることを知り、昨日鑑賞してきた。作品は『善き人のためのソナタ』(原題;Das Leben der Anderen, 2006年、ドイツ)。この作品、実は今年の春頃に既に公開されていたのだが、その時は時間が取れず観逃していたものだった。しかし、思いがけず身近な場所で時期外れの上映をしてくれていたことで機会を得た。時期外れと云ったが、小さな映画館の場合は、ロードショーが終わった後に何ヶ月かをおいてフィルムが回されてきて上映してくれることが往々にしてあるので、観逃した人にとっては有り難いものだ。
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物語の舞台は、1984(昭和59)年の東西の壁が崩壊する5年前の東ベルリン。東西冷戦下、旧東ドイツ(DDR,ドイツ民主共和国)では国民統制のために国家保安省(シュタージ)が徹底的に国民監視をしていたことは周知のことである。社会主義や共産主義の体制では国民の自由意志・思想は認められず、反政府的と思われたが最後、刑務所に放り込まれるという独裁国家の旧東ドイツ。戦前戦中の日本の特攻も反動的なものに対する仕打ちの恐ろしさでは負けてはいないと思うのだが、実にどす黒い歪みまくった国家の時代がドイツにはあったのだ。シュタージの局員であるヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は、国家の命により劇作家ゲオルク・ドライマン(クリスチャン・コッホ)とその恋人で女優のクリスタ・マリア・ジーランド(マルチナ・ゲディック)が反体制的であることの証拠を掴むために盗聴を開始する。この指令はクリスタを我が物にしたいという時の大臣ヘンプフの個人的な欲望から始まったものだった。ヴィースラーはそんな事実を知らぬままに、国家的忠誠心に基づいて盗聴操作を始めた。ドライマンの留守中に部屋に入り込み、室内のあらゆる場所に盗聴器を仕掛けていく(バスルーム、トイレに至るまで!盗聴はここまで微に入り細に入りなのだ)。
ある晩、ドライマンの誕生日が彼の自宅で開かれた折に、招待客の一人で演出家のイェルスカがドライマンに「この曲を本気で聴いた者は悪人にはなれない」という言葉とともに”善き人のためのソナタ”というタイトルの楽譜を贈る。イェルスカも反動的であると睨まれ、職業活動を禁止されている身であったが、ドライマンにとって師とも云うべき存在の男だった。ドライマンはイェルスカが再び仕事が出来るようにと運動を起こしていくのであるが、それは後の話。この晩、パーティーが終った後のクリスタとの燃えるような情事の一部始終までヴィースラーは盗聴により記録に残していった。その後、ヴィースラーはその盗聴において、ドライマンが奏でるイェルスカの作品”善き人のためのソナタ”の音色を繰り返し聴くことになる。併せて、盗聴器から聞こえてくるのはドライマンとクリスタの自由な生活ぶり。日常会話や情事に象徴される自由な生き方の前に、ヴィースラーははからずも一筋の感涙を流すのであった。
シュタージの恐怖は、ヴィースラーでさえ震撼させる。彼の学友だったシュタージの部長グルヴィッツは、ヴィースラーが教官を勤めるシュタージ養成学校の学生の会話にまで立ち入って、ほんの些細な戯言でもそれが反政府的と見做せばこれを許さずという冷酷さを見せ付ける。国民統制は斯くあるべしというグルヴィッツに圧倒されるヴィースラーだが、元々が国家に忠実な吏員でもあり、ドライマンやそのシンパたちへの監視活動は次第にエスカレートしてゆく。片や、ヘンプフ大臣はとうとうクリスタを陵辱するに至り、それをドライマンに見せつけることでドライマンの芸術家としての思想信条に揺さぶりをかける。イェルスカの演出家としての活動を再興させるためにドライマンは運動を展開しようと目論見、その下地となる記事を新聞に投稿するために原稿を執筆する。が当局の監視を免れるために、原稿とそれを打ち出したタイプライターを自宅の床下に隠し、時を待つのだった。ヴィースラーはこのことについては敢えて見逃していた。ところが、これに待ったをかけたのが当局部長のグルリッツだった。彼は、クリスタを禁止薬物の所持・服用の廉で捕縛し、刑務所に拘禁した後、「もはや我々は学生ではないのだから」という言葉で、ヴィースラーにクリスタへの尋問を命じる。ドライマンとの赤裸々な生活ぶりを既に把握しているだけにヴィースラーもそこは冷徹に尋問をするが、これによりクリスタは恋人ドライマンをシュタージに売り渡してしまう。
ここから事態は一気にドライマンの逮捕劇に進んでいくのだが、その直後に身近な生活だけでなく世界情勢は大きく変貌する。クリスタは最後まで、ドライマンを庇い続けて自殺する。が、ドライマンの政治的運動の証拠である新聞記事の原稿とタイプライターのありかについてヴィースラーが見逃したことをグルリッツは責め、ヴィースラーは左遷されてしまう。そして数年後のある日、同じ社会主義・共産主義体制のソヴィエト連邦がM.ゴルバチョフの登場により崩壊し、冷戦構造が揺らぐ。さらにベルリンの壁崩壊・・・。ここに至ってヴィースラーの環境も慌しく変わる・・・・。
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ストーリーはあらかたこんな展開なのであるが、ヴィースラーの目を通して観た旧東ドイツの暗黒の時代のことが丁寧に描かれていた印象を受けた。当時の政治体制のことは私も良く覚えていて壁の崩壊のニュースには小躍りしたものだった。長きにわたって国を分断し、人間を分断してきた壁、思想をはじめとする「自由」を抑圧してきた壁が取り払われたことはドイツ国民の切実な願いであったこともその映像から良く感じていたからである。それだけに、それ以前の共産圏の国家の密告社会の怖さというものがどれだけのものであったろうかということをこの作品を通して改めて想像したものである。私は作品の中で主人公ヴィースラーの心の動きというものが良く表現されていたので、彼が単に冷徹な人間なのではなく個人としては血の通った一面があることから、国家主義的な視点と個人の生き方を追及する視点の両方から主人公の人物像を辿った。その中で、社会体制を変えてゆく力がどんなものであるか、冷徹な人間にも宿る一掬の情というか自然な人間性を呼び起こす原動力とは何なのかということを改めて考えさせられた思いである。「生きる」ということについての姿勢として、「自由」であることがどれ程貴重なことであるのかをヴィースラーをはじめとする登場人物それぞれは教えてくれる。劇作家や女優という立場からの人生と国家主義思想に固められた人間からの人生観にはどうにもならないほどの隔たりがあるが、勿論、国家主義思想に漬かり切った人間たちの価値観やや生き方を単純に否定するべきでもなく、そこに横たわったヒューマニズムの視点から感じ取ることの出来る国家としての構造的矛盾をこそ抉り出して検証することが不可欠だというのが、ナチスに始まる負の遺産を背負い続けるドイツの国民の総じての恒久的課題になっている。そのことに思いをいたして、私たち日本人も歴史に学び続けていかねばならないと痛感したものである。
この4月から映画館で5作品を見てきたが、やっと繰り返してでも観たい作品に出逢った気がしている。既に先月、DVD化されているとのこと。買っておきたいと思っている。ちなみに情報によれば、7月下旬に主人公ヴィースラーを演じたウルリッツ・ミューエ氏は胃癌により54歳という若さで逝去されたとのこと。ここに哀悼の意を表して、映画評を奉げる次第である。
心に響く映画 『善き人のためのソナタ』 - [ドイツ]All About
ドレスデン爆撃の事実を知る意味では良い作品だった「ドレスデン -運命の日-」 [映画]
今日もまた映画の話をする。10日(金)にもまた映画館に行った。私の映画館鑑賞も今回で4作目ということで、本当に暇とねらい目の映画を探しては映画館に足を運ぶようになったものだ。今回は、第二次世界大戦末期のドレスデン爆撃を舞台にした『ドレスデン-運命の日-』(2006年ドイツ作品)である。これまでのところ『今宵フィッツジェラルド劇場で』からの鑑賞ツアーでアメリカ・フランス・スペインと渡り歩いてきて今回がドイツということで、各国の映画作りの違いも色々と見えてきたところであるが、それ以前に私にとっては歴史に名高いながらも知らずに来たドレスデン爆撃の実態を知る格好の機会となった。劇場版は150分だったが、元々はドイツのテレビ映画ということで180分であるらしい。ついでに劇場公開は今のところ日本だけのようだが、海外の公開となると第二次大戦の同じ敗戦国である日本が受け容れられやすいという事情が関わっているのであろうか。
本作は4/21から順次全国公開されているところなので、既にご覧になった方も少なくないと思われる。私が観た神戸・三宮シネフェニックスでは今月24日まで上映されているということなので、まだの方は是非見ていただきたい作品である。是非観ていただきたいとは云ったが、実のところ映画芸術的にどこまで優れた作品なのかどうかは専門家じゃないのでもう一つ分らないが、率直な印象として空爆計画を立てる連合軍の会議の緊迫感や空爆シーン自体は実に丁寧に作られた作品だという事だけははっきりと云うことが出来る。評価出来ることといえば究極的にこの一言に尽きてしまう。この時点で「観る価値無し」と即断されると折角の作品紹介の意味が無いので、しっかりとコメントしておきたい。
話は第二次大戦末期の1945(昭和20)年1~2月のドレスデンが空爆された期間の人間模様をテーマにしている。あっさり云ってしまうと<戦火の中でのラブ・ストーリー>なのであるが、恋仲の男女は敵国同士の関係というところがポイントになっている。父親の勤める病院の看護婦として働く24歳のアンナという女性が主人公。彼女には婚約者のアレキサンダーという男性がいたが(父親の決めた相手であった)、空爆中に撃墜されパラシュート降下でドレスデンに降り立った一人のイギリス人負傷兵との出逢いが彼女の心に”運命”的な火をつける。あろうことか敵国人のこの負傷兵ロバートに心惹かれてしまい、アンナは自分の病院内に彼を匿い、二人は次第に心を通わせていく。当然ながらこの事実を父親が知る段になり、アンナは父親から激しく叱責されロバートと会うことを禁じられる。ロバートも病院内に”留置”され、これで2人は今生の別れになる、と思いきや、父親の制止を振り切ってアンナはロバートの元に駆け寄っていく。そうこうしているうちに、空爆が本格化する2/13がやってくる。この日の夜9時45分こそドレスデンがあたり一面焼き尽くされる始まりとなったのである。この爆撃で逃げ惑う中、アンナの父親が爆風で足を吹っ飛ばされたことがもとで死んでしまい、アンナも婚約者アレキサンダーやロバートともに戦火の中を逃げ惑い続ける。アレキサンダーは、婚約者のアンナがロバートと情を通じていたことに不快感を示しつつも戦火の中を逃げる時は一応”助け合う姿”を見せる。しかし、ロバートが崩落した建物の中で動けなくなってしまったときにアレアレキサンダーはアンナにロバートの救出を諦めさせようとする。が、アンナはアレキサンダーを振り切りロバートとともに行動をともに・・・。
結果的に奇蹟的に3人ともそれぞれに助かって空爆の中を生き延びるのだが、これだけ書いていても少々幻滅するほど、アンナを中心とする3人の心の描写が弱い。そもそも、現実的戦時下でばったり出会っただけでにかくもあっさりと敵国人同士が心惹かれ合うというケースがどんだけあるのかと思う。アンナが看護婦という立場であるからして”人類皆兄弟”というデュナン的な思想に基づいてロバートを助けた、としてもである。惹かれちゃったものはしょうがないと云ってしまえばそれまでなのだが、それは説得力が余りにも無さ過ぎるものである。それ相応に惹かれるための条件がもっとなくては、見ているこちらとしてはちょっとどうなのかなあということになってしまう。しかも惹かれてしまった先に肉体関係まで持ってしまうというところが、まさに「アンナ、そんなことで良いのか?」なわけだ。
そんなこんなで、本作は登場人物とストーリーそのものの展開ということを考えると明らかに駄作に成り下がってしまっている。折角だったのにと思われた方も少なくないだろう。ただ、空爆のシーンはリアルで迫力もあった。制作費1000万ユーロは伊達じゃないなとも思うのだが、何よりもリヒター監督はドレスデン爆撃の事実を忠実に伝えること・公平な目で伝えることに普請していた節は伺える。その視点に立ってドレスデン爆撃を見詰めるには程好い作品となったということだけは確実に云うことが出来るのである。
アルトマンの遺作「今宵、フィッツジェラルド劇場で」で考えたこと [映画]
先日は、久々に映画館に映画を観に行った。思えば、映画館に足を運ぶのは20年近くぶりになる。この頃は、テレビでも民放やNHKの衛星第2放送などで色々と映画を放映しているので、観たいものや売れ筋の作品を観るのには困らないということで、めっきり映画館に行くなどということがない私だったが、思いがけず新聞の懸賞でチケットが当ったので気晴らしもなるしためしに観ようということで行って来た(私は何故か懸賞モノに当る確率が高く、これまでにもデジカメやタイガースの甲子園観戦チケットやジャムの詰め合わせなど色々なものが当ったので割合懸賞は応募しているクチだ、まあそんなことはどうでもいいのだが・・・)。私は、映画を観るのは好きだが、映画館に足を運んでまで観に行くことは先ずない。興味に任せて観に行って期待外れという経験が割合あったので、映画の宣伝も正直眉唾でとらえていることが圧倒的に多い。そんなことで映画を語るなと映画人の皆さんにはお叱りを受けるかもしれないが、実際のところ見応えを感じられる映画がこの頃は非常に少ないと感じてきた。私は邦画でも洋画でも社会派的な映画が好きで、観に行く場合はそういう系統のものを狙う。ただ、実際には今の映画事情について疎く、テレビ・新聞で大々的に宣伝されているものも関心が持てず、「何だ、またまた「空前のヒット!」とか「全世界が感動の涙」って全世界ってどの辺までを指して云う気だ?」などともう本当に信用できない状態。だから、こういう類の映画は観るにしてもテレビで済まそうと端から決めている。実際に観に行くのは、観客も比較的少なく、こぢんまりとした映画館でじっくり鑑賞出来る作品を当込んでいる。
そんな中で、家族から勧められたのが「シネ・リーブル神戸」だった。日活系の映画館だそうだが、上映作品を見ると確かに他の映画館ではやらない作品がチラホラ見受けられる。家族によれば、マイナーな作品ではあるだろうけれど、割と硬派な堅実な作品が多いみたいだとのこと。おー、そうか、それは良さそうだなということで朝日新聞の鑑賞券懸賞企画に応募したら、あっけなく当選!運が良いよなと思いながら観に行ったのが、ロバート・アルトマン監督の遺作となった「今宵、フィッツジェラルド劇場で」である。
アルトマン監督は昨年11月20日に亡くなった巨匠の監督ということだが、私はこの作品に触れるまで全く彼のことを知らないできた。故に彼の作品に接するのはこれが最初で最後になった。彼の巨匠振りなどを何一つ知らない中でこの作品のことを論じるのは不遜としか云い様がないのではあるが、知らない分の気楽な鑑賞が出来るというものである。一応、何も勉強しないでは失礼に当るので、アルトマン監督について簡単に紹介しておこうか。何々、あの「コンバット!」シリーズの演出をしていたのか。だが、これは映画監督してデビューした当時の1957年頃はさしたる評価が得られず、仕方なくテレビ業界に飛び込んだことによるものだとか。しかし、その後は、「M*A*S*H」(1970)でカンヌ映画祭最高賞、「ビッグ・アメリカン」」(1976)ではベルリン国際映画祭金熊賞「ザ・プレイヤー」(1992)でカンヌ映画祭監督賞、「ショート・カッツ」(1994)でベネチア国際映画賞金獅子賞、「ゴスフォード・パーク」(2001)でゴールデングローブ賞監督賞などを受賞、そしてアカデミー賞には5度候補に挙げられるも受賞は名誉賞1回のみという実に輝かしい業績を上げたとある(アカデミー賞の本賞受賞を逃したのはアンチ・ハリウッド派であったためとされる。こういう話はあるよね、イチローが国民栄誉賞を二度にわたって辞退したがために、NHKも彼を嫌ってかマリナーズの中継にはどちらかというと消極的な姿勢が感じられるもの)。アルトマン監督のお得意は、群像劇と呼ばれるものであり、これはアルトマンによって映画の一大ジャンルとして確立されたとまで云われているそうだ。映画好きなのにこんな基本知識も知らなかったなんて何とお恥ずかしい・・・。
さて、その群像劇の最後の作品となったこの「今宵、フィッツジェラルド劇場で」。他の作品を見ていないのでなかなか評しにくいが、観た限りで出来る限りで感想を述べておきたい。結論から云うと、群像劇の本質が難しいためか、これが高く評価されるような作品であるかどうかは分らないというのが、率直な感想だ。実際に今でも放送されているという名物ラジオ公開番組「プレイリー・ホーム・コンパニオン」の舞台裏の人間模様がテーマとなっているのだが、番組の出演者が多数ということで絡み合うのは特にストーリー性が感じられるという程のことではない。テキサスの大企業家・通称「アックスマン/首切り人」(T.L.ジョーンズ)によって地元ラジオ局WLT・劇場ともが買収されるということになって最後の公開番組、というある日の一夜の出来事を描いたに過ぎない。生放送ということでのハプニングとして名物歌手の老人チャック・エイカーズ(L.Q.ジョーンズ)の死が描かれているが、これが本作品の柱になっていると思われる。この名物歌手は長年この番組で活躍してきたが、ミネソタ州セントポールのフィッツジェラルド劇場でのこの日が勿論最後の出演、その舞台を終えた後、彼は楽屋裏の一室で一人静かにあの世に旅立っていく。そこへ入ってきたランチレディーが嘆き悲しむが、どこからともなく現われた白いコートの女”dangerous woman”(V.マドセン)が優しく囁くのが「老人の死は悲劇ではない」という言葉。この言葉が、作品のメッセージの最たるものになっていることは間違いないのだが、この一言を強調するために様々な群像をアルトマンは揃えたわけだ。楽屋の描き方は勿論ショーの直前ともなれば気忙しいものであり、そのドタバタは恐らくどこでも同じような舞台裏の風景だろうが、ダスティ(ウディ・ハレルソン)とレフティ(J.C.ライリー)の下ネタカウボーイソングデュオの下劣で軽妙な舞台進行や、ステージマネージャーのモリー(M.ルドルフ)の産気付くシーン、探偵気取りの警備係ガイ・ノワール(K.クライン)と白いコートの女の絡み合い、そして、劇場買収の主、アックスマンの不気味な事故死など、実に多くの場面が散りばめられている。全ては、劇場の終焉と名物歌手チャックの死を引き立てる演出となっているわけだ。様々な喧騒の中で一人の人間の人生と劇場の歴史が終わりを告げるというのが、全体の流れなのである。
内容的にはこういう話になるのだが、正直なところ、好感が感じられたのは、出演者の俳優陣の素晴しい歌唱の数々であり、一つひとつのコミカルなシーンくらいなものだった。ただし、コミカルなシーンも単体としては面白味もあるのだが、一体的に見ると少々まとまりがなくなっている感があり、画面の構図的に実に五月蝿さを覚えるのも事実である。メリル・ストリープ演じる歌手ヨランダのカントリーソングを伴っての幼少時代への郷愁を語るシーンはともかくとして、司会者のギャリソン・キーラー(本人)のお道化振りが極端に感じられたし、出演者一同がどっと集まって派手に舞台を盛り上げるのは、悲喜交々の象徴的描写と解するべきものであることは勿論なのだが、どうにも焦点がボケる雰囲気があった。その陰で、企業家アックスマンの事故死という不気味な出来事を添える辺りは、アルトマンの手法の独特な形なのだろうか。問題は、アックスマンの事故死が白いコートの女に導かれる形で描かれていたが、この女がどういう存在だったのかということが謎のまま残ったことだ。終末部のシーンでは、劇場が潰れた後に番組のかつての出演者たちがバーに集って昔を懐かしんでいるところへその白いコートの女が現れ、「あなたも事故死には気をつけて」という怪しげな言葉を残して去って行く。このシーンの意味するところも深いのではあるが、彼女は何故、アックスマンを事故死に引きずり込んだのか、そして別の人間のことも死に引きずり込むような意図を持っていたのか。劇中、彼女は「天使」という名乗りもしているだけに、死を恐れることはないのだ、どんな人間にも必ず死は訪れるのだというメッセージをもたらすエバンゲリオン(預言者)として描かれていたのであろうが、ガイ・ノワールとのやり取りを含めて見直すとその姿は亡霊・生霊・死神の類にも見えてくるのだ。実際、聖書によれば、預言者もキリストの前触れとして登場するが、その姿は一般の人間にとってはある一瞬のものであり、先触れを告げるとすーっと消え行くような存在に描かれているものがある。アルトマンがエバンゲリオンとしてこの白い女を配したと理解すれば、本作がまさに「死」についてこれといかに向き合うかということを一大テーマとしてこの世に遺されたものであるかということが分るというものだろう。白いコートの女が不気味なのは、そのラストでバーに集まった番組の出演者たちの前に現われたとき、彼らがその姿を見て云い様のない驚きの表情を見せたことにも表れているが、どこまでも不気味な描かれ方だったように思うのは私だけだろうか。
しかし、上で述べたように、本作がそれ程高い評価を受け得る作品なのかどうかは不明である。群像劇というアルトマンの描き方の独自性は認めるとしても、実際に映画として質が高いかどうかは別の話になってくるのだ。もし、「死生に対する向き合い方」ということをテーマにするのであれば、明確に主人公を限定して描く方が観客にもより理解しやすいものになったかもしれないと思う。群像劇というのは本当に厄介なもので、オムニバス以上に主題描写が難しいことだろう。オムニバスなら、それぞれのストーリーは独立させることが出来、当然そこに込めるメッセージも独立させられるだろうが、一度に多数を描くのは焦点化が出来ずじまいになることがあり、見る側からすれば、結局どこが一番の肝だったのかという疑問を残したままになりかねない。アルトマン監督が遺したメッセージは、深く見つめていけば勿論理解可能なことなのであるが、それだけに群像劇というジャンルの中でまさに群像に自らを溶かし込んだが故に彼自身の姿がちょっと薄まってしまったように感じるのは、私が本作を理解しきれていないせいかもしれない。ただ、私が云えるのは、R・アルトマンという監督は、群像劇という一ジャンルを確立して、その世界の中で「個の存在性」(死生観を含めて)を世に問うた監督だった、ということではある。
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