「ムンク展」にみる人間の織り成す装飾的な生のこと [美術]
絵画で「叫び」と云えば、多くの日本人が思い起こすのはムンク( E.Munk / 1863~1944 )の作品ではないだろうか。美術に詳しくない方でも子どもの頃に教科書で必ずと云って良い程、その絵を見ているであろうからである。今でも小さい子でもムンクの名前は知らなくても「叫び」という作品のことは知っていて、描かれている人物の仕草を真似ることが多い。仮にその絵に込められた思いなど理解出来なくても、絵が放つインパクトは強い。その絵に対するイメージは勿論人によって異なっている。その色調から先ずくるネガティブさに対して、共感を覚えるのか、拒絶感を覚えるのか、はたまたその中庸をいくのだろうか、答えは様々だろう。然し私は子どもの頃からムンクの絵には限りないシンパシーを持ってきた。それは、これも私が好きなルオーやゴッホ、レンブラント、マチス、セザンヌなどの作品とは勿論異なる世界観なのだが、近代以降の世界的な混迷・混沌による内なる不安を詰め込んだものとして理解出来るものである。「叫び」をはじめとする彼の作品に込められたものが、彼の死後60年余を経た今、そして昭和も終わり平成も20年を経た日本の鑑賞者たちに新鮮な衝撃を今なお与え続けていると云っても過言ではないだろう。
一昨日(3 / 11)は、現在開催されている「ムンク展」の鑑賞に行って来た(場所は兵庫県立美術館)。この展覧会は、今回の神戸の前には上野で開催されていたようで、巡回展ということになる。巡回展ということでは、以前、金峯山寺蔵の蔵王権現立像を目玉とする「祈りの道 吉野・熊野・高野の名宝展」を大阪市立美術館で鑑賞したのだが、これを愛知県で鑑賞した友人から聴いた話では同じ観覧料なのに大阪開催分よりも内容が貧弱だったということだった。そんなこともあるので今回の展覧会がどうか同じことにならないようにと願っていたが、結果的には密度のある時間を味わうことが出来た。何でも今年は兵庫県立美術館が王子公園から灘駅浜側に移転してから5周年の記念ということで「ムンク展」は結果的に気合の入った展覧会となったようだ(出品数は全部で108点! )。 ああ、勿論、個人的には余り関心を持つことの出来ない作品もあったけれども、それはこれまでのムンクのイメージが勝ち過ぎたせいもあり、また、私自身の理解が及んでいない領域の作品であったためだと思っている。言い訳がましいかも知れないが、どんなに好きな歌手の歌でも個人の好みというものによって選別されるなんてことはよくある話で、何でもかんでも手放しで良いというものでも無い。事実、今回の展示作品の中では、構成の第7章<労働者フリーズ>と銘打たれたオスロ市の労働者階級を描いた作品群には自分の感覚がついていけないものを感じた。
本展は、これまでのムンク像にとどまらず、<生命のフリーズ>と題される彼の連作群による装飾的絵画の試みに着目したという点で斬新なものではあった。ここでいう「装飾的絵画」という位置付けはこれも様々な解釈が可能だと思われるが、私は別にムンクがその作品を自身のアトリエなり展示室なりでどのように配置してどんな空間を作ろうとしていたのかということはさておいても、その個々の作品の醸し出す装飾性に注目をしていた。要は、作品の並べ方なのではない。一つひとつの作品が額縁の範囲で単体として存在する上で放つ生の装飾性をどれだけ感じ取れるかというところに鑑賞のポイントを置いたのである。
彼の作品は「叫び」は勿論のこと、「不安」「嫉妬」「思春期」などもそうだが、人間の内面の不安定なるところのものを鋭く抉り出しているものばかりである。「葛藤」「嫉妬」「恐れ」「不安」そして「渇望」というキーワードで説明することが出来るのであるが、それはそのままそういう形での「生への欲求」の表現と云って良いかも知れない。人間の奥底にある概念感情として、今挙げたキーワードはネガティブなイメージでありつつも自然なものでもある。どれもが洋の東西を越えて、日常生活・人生の中で入れ替わり立ち代わり生じる感情であり、私たちはそれらの感情とともに生命のある限り人生という旅をしている、やや大仰に云えばこういうことになろうか。そこには常に対他者(対世界)の関係が広く横たわっていて、自分の存在をその関係の中で確認しながら私たちは生きているということも出来るだろう(存在意義を見出すまでにいたるかどうかは諸個人によって差が出てくるのだろうが、それでも思春期をはじめとして節目節目で人間は何某かのことを感じ取り考えるものではある)。このことは「叫び」一つを考えてみても解るものだ。今回は実物は展示されなかった「叫び」は、絵の中の人物個人の叫びを表現したものでは無く、外界との関係で感じる人間の総体的な不安を表現したものと捉えるのが正しいとされる。だから、子どもたちが仕草を真似ることは別として、私たちは絵の中の人物を人間全体の存在象徴として理解することが求められる。
まあ、この辺はある意味作品理解の上では序の口の部類なのだが、大切なことは一つひとつの作品が全て、人間がその局面局面で感じるものを絵にしていったということになるだろうか。例えば「生命のダンス」(1925-1929)一つ取ってみても、三人の女性像によって、恋愛における憧れ・謳歌・諦めの3態を表しているとされる。うんうん、若い頃は惚れたはれたと心が騒ぐけれども、それを過ぎれば(男女の仲というのも所詮はこんなものだ)という悟った感情が出てくるというのはよくある話だ、などと感じることが出来る(これは余りにもお遊び的なものの見方かも知れないけれども)。もっとも、私はこの絵には、恋愛についての考え方の変遷を素材にはしているのだが、もう一つ生から老への流れが織り込まれていると見る。また、「叫び」をはじめとする「不安」シリーズではお馴染みの独特の構図によって時間的・人間関係の空間的な広がりが表現されていることは良く知られるところである。今の不安や嫉妬や恐れが、この先どこまで広がり、続いていくのだろうかと考えるのも、多くの人が一度は経験していることではなかろうか。誰かを羨み妬み嫉みすることもまた然り。時間とともに解決出来る悩みとそうでないもの。それら一つひとつが連綿と続いて私たちの生涯というものを装飾していく。そうした内面の揺らぎをムンクがどこまでも訴求していったことは、作品を見ていれば感じ取れるものと思う。勿論、ムンクが追い続けた世界は、彼自身の時代が与えた混沌・混乱・恐怖に負うところが大きいのだが、それらは時代が変わった現在でも形を変えながら連続性を保っていると云えよう。それだからこそ、いつまでも色褪せること無く、私たちの心を捕らえて放さないのだろう。
作品の一つひとつをここでアップ出来ないのが残念ではあるが、先ずは展覧会のホームページをご参照いただいた上で、やはり実物に触れてほしいと思う。あるいは、ご覧になった方は勿論私とは違った捕らえ方をしておられるかも知れないが、私は美術というのは本当に様々な捉え方が出来る自由な世界だと思っているし、それゆえに心の洗濯をしに今回も美術館に足を運んだのである。来週末は、名古屋で開催されている「浮世絵名品展~色あざやかなり江戸の夢~」と名古屋市美術館の「北斎展」を鑑賞する予定である。
最近は、職場でのストレスが本当に溜まってきていることもあり、今の自分の中で限界点を感じていることもあって、昨日のムンク展は本当に心を洗われた思いがしているのである。


一昨日(3 / 11)は、現在開催されている「ムンク展」の鑑賞に行って来た(場所は兵庫県立美術館)。この展覧会は、今回の神戸の前には上野で開催されていたようで、巡回展ということになる。巡回展ということでは、以前、金峯山寺蔵の蔵王権現立像を目玉とする「祈りの道 吉野・熊野・高野の名宝展」を大阪市立美術館で鑑賞したのだが、これを愛知県で鑑賞した友人から聴いた話では同じ観覧料なのに大阪開催分よりも内容が貧弱だったということだった。そんなこともあるので今回の展覧会がどうか同じことにならないようにと願っていたが、結果的には密度のある時間を味わうことが出来た。何でも今年は兵庫県立美術館が王子公園から灘駅浜側に移転してから5周年の記念ということで「ムンク展」は結果的に気合の入った展覧会となったようだ(出品数は全部で108点! )。 ああ、勿論、個人的には余り関心を持つことの出来ない作品もあったけれども、それはこれまでのムンクのイメージが勝ち過ぎたせいもあり、また、私自身の理解が及んでいない領域の作品であったためだと思っている。言い訳がましいかも知れないが、どんなに好きな歌手の歌でも個人の好みというものによって選別されるなんてことはよくある話で、何でもかんでも手放しで良いというものでも無い。事実、今回の展示作品の中では、構成の第7章<労働者フリーズ>と銘打たれたオスロ市の労働者階級を描いた作品群には自分の感覚がついていけないものを感じた。
本展は、これまでのムンク像にとどまらず、<生命のフリーズ>と題される彼の連作群による装飾的絵画の試みに着目したという点で斬新なものではあった。ここでいう「装飾的絵画」という位置付けはこれも様々な解釈が可能だと思われるが、私は別にムンクがその作品を自身のアトリエなり展示室なりでどのように配置してどんな空間を作ろうとしていたのかということはさておいても、その個々の作品の醸し出す装飾性に注目をしていた。要は、作品の並べ方なのではない。一つひとつの作品が額縁の範囲で単体として存在する上で放つ生の装飾性をどれだけ感じ取れるかというところに鑑賞のポイントを置いたのである。
彼の作品は「叫び」は勿論のこと、「不安」「嫉妬」「思春期」などもそうだが、人間の内面の不安定なるところのものを鋭く抉り出しているものばかりである。「葛藤」「嫉妬」「恐れ」「不安」そして「渇望」というキーワードで説明することが出来るのであるが、それはそのままそういう形での「生への欲求」の表現と云って良いかも知れない。人間の奥底にある概念感情として、今挙げたキーワードはネガティブなイメージでありつつも自然なものでもある。どれもが洋の東西を越えて、日常生活・人生の中で入れ替わり立ち代わり生じる感情であり、私たちはそれらの感情とともに生命のある限り人生という旅をしている、やや大仰に云えばこういうことになろうか。そこには常に対他者(対世界)の関係が広く横たわっていて、自分の存在をその関係の中で確認しながら私たちは生きているということも出来るだろう(存在意義を見出すまでにいたるかどうかは諸個人によって差が出てくるのだろうが、それでも思春期をはじめとして節目節目で人間は何某かのことを感じ取り考えるものではある)。このことは「叫び」一つを考えてみても解るものだ。今回は実物は展示されなかった「叫び」は、絵の中の人物個人の叫びを表現したものでは無く、外界との関係で感じる人間の総体的な不安を表現したものと捉えるのが正しいとされる。だから、子どもたちが仕草を真似ることは別として、私たちは絵の中の人物を人間全体の存在象徴として理解することが求められる。
まあ、この辺はある意味作品理解の上では序の口の部類なのだが、大切なことは一つひとつの作品が全て、人間がその局面局面で感じるものを絵にしていったということになるだろうか。例えば「生命のダンス」(1925-1929)一つ取ってみても、三人の女性像によって、恋愛における憧れ・謳歌・諦めの3態を表しているとされる。うんうん、若い頃は惚れたはれたと心が騒ぐけれども、それを過ぎれば(男女の仲というのも所詮はこんなものだ)という悟った感情が出てくるというのはよくある話だ、などと感じることが出来る(これは余りにもお遊び的なものの見方かも知れないけれども)。もっとも、私はこの絵には、恋愛についての考え方の変遷を素材にはしているのだが、もう一つ生から老への流れが織り込まれていると見る。また、「叫び」をはじめとする「不安」シリーズではお馴染みの独特の構図によって時間的・人間関係の空間的な広がりが表現されていることは良く知られるところである。今の不安や嫉妬や恐れが、この先どこまで広がり、続いていくのだろうかと考えるのも、多くの人が一度は経験していることではなかろうか。誰かを羨み妬み嫉みすることもまた然り。時間とともに解決出来る悩みとそうでないもの。それら一つひとつが連綿と続いて私たちの生涯というものを装飾していく。そうした内面の揺らぎをムンクがどこまでも訴求していったことは、作品を見ていれば感じ取れるものと思う。勿論、ムンクが追い続けた世界は、彼自身の時代が与えた混沌・混乱・恐怖に負うところが大きいのだが、それらは時代が変わった現在でも形を変えながら連続性を保っていると云えよう。それだからこそ、いつまでも色褪せること無く、私たちの心を捕らえて放さないのだろう。
作品の一つひとつをここでアップ出来ないのが残念ではあるが、先ずは展覧会のホームページをご参照いただいた上で、やはり実物に触れてほしいと思う。あるいは、ご覧になった方は勿論私とは違った捕らえ方をしておられるかも知れないが、私は美術というのは本当に様々な捉え方が出来る自由な世界だと思っているし、それゆえに心の洗濯をしに今回も美術館に足を運んだのである。来週末は、名古屋で開催されている「浮世絵名品展~色あざやかなり江戸の夢~」と名古屋市美術館の「北斎展」を鑑賞する予定である。
最近は、職場でのストレスが本当に溜まってきていることもあり、今の自分の中で限界点を感じていることもあって、昨日のムンク展は本当に心を洗われた思いがしているのである。
ファブリ世界名画集〈37〉エドヴァール・ムンク (1969年)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1969
- メディア: -

エドヴァルド・ムンク (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)
- 作者: ウルリッヒ ビショッフ
- 出版社/メーカー: タッシェンジャパン
- 発売日: 2002/04
- メディア: 単行本









