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そして、結局なし崩し的解決になったよね-朝青龍問題にみるモラル欠如社会の問題性③- [スポーツ一般]

 このテーマも今回で3回目である。前回寄稿してから早くも1週間。この間に、日本相撲協会は内部で理事会協議を行い、結果的に朝青龍のモンゴル帰国が認められ本人が帰国したことは周知の通りだ。今日はこの件について長々しくコメントをする積りは無い。語るのも飽きたというか何と云うかだからである。でも、一応の帰結に対してまとめて置かなければという思いもあるので、やっぱり長くなるか・・・。
 前回の更新文で香山リカ氏の発言をもとに私見を述べたが、詰まるところ、「帰るんなら帰れば?」という標題通りのコメントに落ち着いたわけで、実際にも彼は帰国した。勿論この帰国を巡っては事後の現在でも賛否両論は相変わらず喧しいわけだが、まあそのうちあっさりと静まることと思う。別に私はこの問題が世間で騒がれるほどには大した問題ではないと思っている。ただ、朝青龍によって「日本の国技がナメられた感」だけは残り、その事が何とも腹立たしいだけなのだが、怒りの矛先は本質的には朝青龍ではなく高砂親方はもとより相撲協会そのものに対して向けられるべきという思いがあるので、取り敢えずは当の本人が日本からいなくなった意味では事態は一応の収束をみたかっこうだろう。

 朝青龍個人の人間性のことを今更とやかく云うつもりは無い。J.ワシントンの名言宜しく「その席にいない人を非難するな」ということで、本人不在の中で個人を批判しまくっても意味が無い。事態がここに至っては、今度は日本相撲協会そのものの判断の甘さが焦点になる。そもそもがあの高砂親方の鈍な感覚で判断していたことである。報道では当初の対応として本人を説得するのに親方自らが自宅に出向いてという有様で、角界の常識では考えられないことと報じられていたが、これは角界ならずともおかしい話である。小中学生の引きこもりでもあるまいに、良い大人の行状に対しての対応があのような体たらく、完全に高砂親方は朝青龍に振り回されているだけだったのは誰の目にも明らかだ。加えて北の海理事長の判断・・・。理事長は結局は世論と本人の両方を立てようとしてあのような結論を引き出したのかも知れないが、本質的には完全な「負け」だろう。力士の中には相当に反感を持った人間も少なくないと聞く。それは当然なことだ。横綱という立場にあるからああいう我侭も許されるとあっちゃあ、納得がいくわけも無い。どうしてこう日本人の判断というのは甘いのかと怒りを通り越して情けなくなる。私は普段から何事につけて筋目論についてやかましく考える傾向があるので余計に感じていたことなのだが、帰国容認判断も実は相当早い段階から用意されていたに違いない。だが、そのカードを切れば世間が納得しないからということで切り出し辛い状況にあっただけのことで、何となればとっとと裁定を下したかったはずなのである。緊急理事会などと銘打っていたけれども、それは形の上でのこと。そういう体裁でも取って決定ということにしないとますます世間とのズレが大きくなってしまう、これは避けたい所だという判断が大きに働いたのは軽く想像がつくことなのである。しかし、この点、北の海理事長の歯切れの悪さ・曖昧さが目立ってしまったのは否めないだろう。「あーあ、多分こーなるだろうと思ってはいたけどな・・・。結局なし崩し的に帰国容認になったじゃねえか!」私にはこういう印象しかない。

 今日のテレビでは海外メディアのとらえ方についても報じていたが、実際のところアメリカフランスのメディアも呆れ顔ということのようだった。外国では紛争・テロで苦しんでいる状況もあって、そういうことからすると日本はお気楽だというわけであり、私も同感だった。もういい加減にの問題で騒ぎ立てるのは止めたら良いのだ。メディアはもっと追いかけるべき大事なネタがあるんじゃないのか。視聴率優先はもう結構、もっと生活現実の根本の部分にメスを入れるべきなのだ。変なのはこの問題がやたらに日蒙外交問題というレベルにまで押し上げられて大きくなりすぎたことでもある。相撲の問題が両国外交に多少に影響が出るとしてもそのくらいのことは大したことではない。というか、多少の軋轢くらいで大騒ぎするというのも日本が外交下手というか、単に本質的にモノを考えられないだけのことなのだ。本質的なレベルで物事を考えることの出来ないような国のどこが美しいものか。「美しい国」というフレーズを安倍首相は今でも云い続けているらしい。それは本当にそんなことを思い込んでいるというのもあるかもしれないが、あれだけ国民の批判に晒されたにも関わらず続投を決めただけに引っ込みがつかないままに唱えるしかなくなっているだけなのだろう。

 話が横道に逸れたが、朝青龍が帰国した後、日本に再び来るかどうかなんてどうでも良い事なのである。なし崩し的に相撲を辞めるなら辞めてもらっても一向に構わない。これ以上は迷惑にしか感じられないだけだからだ。もう本当に日本に戻って来なくて結構、これが朝青龍問題に投げる結論メッセージなのである。

 


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元の木阿弥にならなければいいが… ~社保庁人事を読む~ [社会学]

 今日からこのブログは2年目に入る。昨日も書いたが、これからもその折々にvividに関心を持ったテーマについて自由に綴っていく積りでいるのでよろしくお願いします。ということで、今日もまた時事問題を取り上げておく。出展は勿論、新聞3紙(毎日・朝日・神戸)から。今日の話題は社会保険庁人事に関する話だ。新聞記事本文は、各々方でご確認いただきたいと思うのだが、掻い摘んで要約をしておく。

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 柳沢厚生労働大臣は24日夜、年金記録の杜撰な管理問題の責任を問われていた社会保険庁の村瀬清司長官(60歳)と厚労省の辻哲夫事務次官(60歳)を更迭することを発表した。後任には、社保庁長官に元総務庁行政管理局長でNHK監事の坂野泰治氏(60歳)を、厚労省事務次官に前内閣府事務次官で日興フィナンシャル・インテリジェンス理事長の江利川毅氏(60歳)を起用するとした。柳沢氏は「勇退を認める」としていたが、年金問題(記録漏れ・不正免除等)の責任を問う意味で事実上の更迭と云える。柳沢氏はこの日の緊急記者会見の席で、「年金記録問題では国民に不安や心配をおかけしたことを反省し、単純に内部昇格するのではなく、新しい目で課題に取り組むのが適当と考えた」と述べ、「塩崎恭久官房長官を中心に十分に擦り合わせた」と官邸の意向が強く働いたことを示唆した。後任人事について柳沢氏は再度民間人からの登用ということを模索してもいたが、結果的には官僚出身者での人事に落ち着いた。他の府省出身者が別の省庁のトップや次官に就任するという形は極めて異例の人事で、安倍政権の厚生省・社保庁に対する不信感の強さを表した人事により、臨時国会を前に刷新色を出したい思惑が見え隠れしている。

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 この人事、私は何となくこうなるのではないかと思っていたので特別驚きはしていない。退任する村瀬氏は、職員による年金覗き見問題や不正免除、保険料流用などの不祥事で揺れた同庁の立て直しを期待されて、平成16(2004)年7月に初の民間人起用で就任したが、不祥事対応に追われるばかりで、立て直しの手腕を発揮できないままの更迭退任となった。私から云わせれば遅きに失した感はあるのだが、ウダウダと続けていられるよりはまだマシというところか。ただ、退任に当たって報酬が本人に支給されてしまうのかどうかというところが気懸かりである。あれだけの体たらくな事をしておいて、“退任するから退職金”っちゅうのは許せない思いである。普通に考えれば誰だって感じる理屈ではないだろうか。国民年金保険料を「払えるのに払わない人」は論外として、「払いたくても払えない人」が数多いる現在の社会情勢の中で、役人だけは不自由のないようにと厚遇されるなどという事はとんでもない話なのである。勿論、彼らはそんなことは端から承知であって、一般国民の声などは歯牙にもかけないのは自明の利なのだろうが、こんな腸の煮えくり返ることもそうはないのだ

 何でも社会保険庁は、平成22 (2010)年に解体され、「日本年金機構」が発足し総務省主導ということになるらしい(社保庁改革関連法成立による)が、私はこれまでの官庁の慣例から考えると、名前を変えただけで本質は変わらないということになりそうな印象が拭えない。それは皮肉にも村瀬氏の過去のある発言にも感じられることだ。初めて年金の問題が発覚して大混乱に陥った当初、村瀬氏はこんなことを云っていたのである。「私のことを批判し辞めろというのならば批判は甘んじて受ける。辞めさせて社保庁の改革が出来ると云うんなら辞める自体はやぶさかではない」。この発言が村瀬氏から飛び出した時に感じた憤りは今も私の記憶に新しい。私は「開き直りやがって!」という思いが強かった。事実、その当時の記者会見での村瀬氏の態度も傲慢不遜も良いところだった。「こんな長官に一般国民の気持ちが理解出来るものか」とテレビ報道を見ながら毒づいたことを覚えている。あのいかにも国民をナメた発言だけは絶対に許せない思いだったので、今こうして彼が更迭されることは「やっと」の感が強い。

 個人を憎んでも本質的な解決にならないことくらいは私も理解しているが、組織というものは上に立つ者によってカラーが変わるということを思えば、誰が上に立つかという事は大変重要なのだ。これは何も公務員だけではなく民間でも同様なことだが、組織論としてはトップに立つ者の考え方が組織全体のありように影響することから、体制維持と刷新は二律背反の事象ということが云えよう。良い組織風土を維持したいという「理想」はそれだけでは抽象的なものであって、その具体像は構成員諸個人において多様なイメージが存在する。組織である以上、「理想」像の最大公約数の部分を優先せざるを得ないわけだが、マンネリにならないことが大切という理屈で「変えられ」てしまう事によって良い風土の「維持」も困難になる。保守と改革は国語辞典に寄らずとも対義語であり、両立は難しいわけだ。学生時代に政治社会学の講義で、教授が「官僚制機構というのは、詰まりは役人同士の綱の引き合いであり、国民不在の中で繰り広げられるものである。国民の声を自分たちの都合の良いように利用し、政党とか省庁などという単位で利権を奪い合う。そして日本の場合、政治家は官僚と結託しているかに見えるが(事実、結託ということもあるが)、実際には官僚に主導権を取られている。これは政治家の能力の無さを表すものなのだ」という話をしておられたことを思い出したが、まさにその通りだと思う。こんな政治家・官僚に国を任せられないと思っているのは私だけでもあるまい。

 その意味では、今回の長官人事も興醒めな話ではある。「結局官僚かよ」と思ったのは私だけだろうか。この新人事が真の意味で改革に繋がるものなのか疑問が尽きないのだ。毎日新聞の記述では、村瀬氏に対する社保庁幹部の信頼は厚くて、庁内には「三顧の礼で迎えた村瀬氏を、見せしめで退官に追いやる官邸はあまりにひどい(原文まま)」との不満が高まっているとの事。これも勿論様々な考え方があろう。一つは村瀬氏への同情論の他に、氏を辞めさせて済ませられる話ではないという点。これは国民に近いところの話で村瀬氏個人における責任の取り方として鋼鉄退任だけで十分ではないという考え方に基づく。これだけ国民を不安に陥れたことの落とし前をつけさせなければならないという国民感情からすると、退職金は受け取るなという以上に「今まで納めてきたカネを耳揃えて全部返せ!」という話なのだ。杜撰な管理しか出来ないような官庁にこれ以上保険料を納める気になれないというのも理解出来るというものだ(勿論、この事を理由にしてこれ幸いとばかりに納付拒否をしているような輩は論外なことだ。払えるのに払わないような人たちはどんな事だって理由付けするものだ)。私たちは役人の飲み代稼ぎのために税金・保険料を納めているのではない。こういう声も恐らく官僚の多くは無視するのだろうが、実に情けない事だ。

 だからこそ選挙に無関心になってはいられないのだが、先日の参院選の結果はこの意味では政府・与党には痛い鉄槌となった。安倍政権も朝令暮改とは云わぬまでもそれまで頑なだった態度を一変させて人気取りな事をあれこれとするようになった。北海道大学大学院教授の山口二郎氏も述べておられるが、旗色が悪いと見るや態度を一変させるのは政治ポリシーの脆弱さを物語るものだと云えよう。そこへ持ってきて今回の社保庁人事だ。「遅きに失したとは云いながらもやらないよりはマシ」という気持と、「安易な首の挿げ替えでお茶を濁して欲しくない」という思いが交錯している私であるが、これまでの杜撰な状態を取り締まることをしなかった厚生労働省や社会保険庁の歴代の大臣・長官をはじめとする幹部全員を調べ上げて彼らに一様に問題になった保険料ぶんの返還をさせたい思いである。自民党はかつてこの問題について民主党代表代行の菅 直人氏の厚生大臣時代のことを槍玉に挙げて口汚く罵っていたが何のことは無い、自民党こそ出鱈目の限りをやり続けてきた張本人ではないか。菅 直人氏は薬害エイズ問題の謝罪も歴代の厚生大臣(自民党大臣)がやってこなかった中で唯一人公式に謝罪をしたのだ。菅氏の謝罪を人気取りだと批判していた人もいたこととは思うが、それは大変な筋違いも良いところである。薬事行政の出鱈目さ加減といったら自民党の右に出るものはいない。戦後復興のために貢献したことはともかくとして、その一方では長きにわたって国民を騙し続けたこともまた事実なのだから。自民党が菅氏を非難していた時、私は「こいつら子どもの喧嘩奈美だな」と思ったものだ。菅氏がやろうとしていたことが自分達にとって好ましくないと感じるや、「良い子ぶるなよ」と突付いているという苛めっ子レベルの幼稚な姿なのである。その問題の本質がどこにあるかくらい分っているだけに余計に性質が悪い。そんなことを自民党に大して感じていた私は、その余りな卑劣さに反吐が出る思いでもあった。そして数の論理で押し通すくせにその数を恃む上では恃む相手に卑屈なまでに気を遣うという哀しい姿も見せる自民党。こんな風だから、社保庁改革だなんてどこまでいったって出来やしないと思われるのだ。実は自民党全体がやる気が無いままに思われても仕方が無い。社保庁の改革はそうだなあ、やっぱり民主党の長妻議員や馬渕議員辺りが長官になるか厚生大臣になるかでもないと無理なのではないかと思う。このブログで具体的に応援している議員の個人名を挙げるのは、自分自身の思いとしてはかなりな挑戦に思っているのだが、私はこの民主党の2人のエースに大いに期待しているのである。


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今日で1年!! このブログもよく保った!!! [プライベート]

 このブログは今日が開設から丁度1年になります。厳密に云えば、開設から365日目ということです。標題のように、先ずは1年よく保つことが出来たというのが率直な今の心境ではあります。今日までで投稿した記事は全部で125となります。単純計算で1年間で3日に1本のペースで執筆してきたことになります。時折空白期間を置いたりしながら自分なりのペースで「心に思いつくまま由無し事をそこはかとなく」書き連ねてきたものではありました

 ただ、1年を過ごしてきて改めて思うのは、このブログの扱うジャンルは実は「福祉・教育ということを中心にして」という当初目指してきたスタイルからはかなりかけ離れたものになり、自分自身が関心を持ったものについては可能な範囲で掘り下げてみようという明確な意図を持ったものになりました。勿論、各分野について専門家ではないので掘り下げきれていないことは多々ありますが、自分なりには生活感覚を大切にしてきた中での考察なので、どれもこだわりを持って考えてきた積りではあります。読んで下さった皆さんには恐らく私の考え方というものがかなり明確に色濃く出されていることが実感していただけたのではなかろうかと思います。このイズムはこのブログのいわば真髄とも云えるものであり、不変のスタイルにしていこうと思っています。

 考察してきた各テーマについて色々なことを感じて下さっている事と思いますが、賛否様々であってよいと思います。大切にしたいのはこのブログを通して皆さんと少しでも多くの対話をしていければということです。このブログに度々訪問して下さっているよっぽさんという方はこのブログの紹介をして下さった折に「議論好きな一面が良く表れている」と評して下さったのですが、事実私はそういう一面があります。ただ、いわゆる議論のための議論をするだとか曲学阿世の様なことにはなりたくないなあというのがあります。そういう意味では、社会現実・生活現実に則して実質的な、読者全体に何某かのカタチで役立つような話題提供が出来ればと考えるものです。そのためにはある意味テーマはデタラメくらいが良いのかなあと思ったりして、少しずつ間口を広げてきたわけですが、それでも割合に関心の向け所は固まってきていることを感じています。

これからも世間のことに敏感に、そして日々の生活で感じられるものを大切にしながらこのブログを続けてまいりたいと思っていますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


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帰るんなら帰れば? -朝青龍問題にみるモラル欠如社会の問題性 ② - [スポーツ一般]

 先日このブログで取り上げた、朝青龍問題はいまだに迷走を続けているらしい。今回もこの話題を取り上げてみる。昨日付け毎日新聞『私の確信』に精神科医の香山リカ氏のコメントが載っていたので関心を持って読んでみた。結論から云うと、香山氏の見解については半ば理解し半ば?な思いになっているというところである。氏は作家の五木寛之氏の見解を拾いながら朝青龍の問題を考察しておられるのだが、つまりはこの問題は朝青龍本人が謝罪し反省することで解決出来るとしておられる。氏は、「全体としては謝罪をして心を入れ替えて出直す」という“常識”的なプロセスで解決出来る性質のものだとする(“”付けは筆者)。しかし、「横綱の強さは誰もが認めるところであり、引退まで望んでいる人はほとんどいないはず」と見る香山氏。これはどうなのだろうか。引退を望むというのは話の本質が異なるように思う。今回問題にされているのはそんなことではないはずである。夏巡業を蹴って、体調不良を理由にしながら母国でサッカーボールを蹴っていたその行為そのものが批判されているのであって、それと「引退」云々はまるで次元の違う話。そもそも心情的に「引退」という決着は到底認められるものではないだろう。相撲を辞めるにも辞め方というものがあるわけだが、「辞めさせ方」もまた然りである。私が親方の立場であれば、この問題の解決は実にシンプルなものだ。この問題はもとよりそれ以前から問題になっていた「横綱の品格」に関わることも踏まえて「破門」の処分以外にない。それがけじめというものである。「引退」などという処分は甘やかしも良いところではないか。朝青龍に批判的な人々に迎合するわけではなく、ごくシンプルに考えてそう思うのである。

 相撲協会の北の海理事長の見解として、「モンゴルに帰国させることは考えていない。世間の納得が得られないだろう」というのがあるが、これも可笑しな話だ。裏返せば「周りの納得があれば帰国させる積りだ」ということになるからだ。こんなおバカなことを云っているからナメられるのよ。私が朝青龍の立場だったなら、このコメントを聞けば腹の中で「ふん、相撲協会なんてチョロいもんさ」とほくそ笑んでいるところだ。ここには相撲協会として興行上の弱味が絡んでいることは間違いないのだが、実に情けない話ではないか。ただでさえ相撲人気が低迷している上に、看板の横綱を辞めさせたとなると柱が無くなることによって更なる相撲離れが起こるのが怖いというあれである。スター性のある横綱がいないことは飽くまでも相撲協会というか各相撲部屋の責任において解決していくことであり、その危機感なんてものは今に始まったことではないはずなのだ。この前の場所で琴光喜関が大関昇進を果たしたことにより辛うじてカッコがついたと思われるが、問題はこれからなのである。千代大海関や魁皇関などキャリア・実力から云って横綱になってもおかしくないはずの力士が実にボロボロな体たらくになっていることこそどうにかしてくれと思う。例えば千代大海なんかも稽古嫌いなんて云ってないで、もっと努力して欲しいわけである。どうして日本の国技が外国人にこうまで席巻されにゃならんのかとジリジリするわけだ。そこへ持ってきて朝青龍問題となれば、うんざりもするがな。だからこんな情勢でもし朝青龍を破門にしたら、「日本人力士が横綱になれないことによる僻みで破門にしやがった」という協会バッシングが起こることの方を恐れているのか。そうだとしたらいよいよ情無いではないか。協会が体面を守るために朝青龍問題をうやむやにしようとしていることにしかならないからである。

 相撲協会の北の海理事長の見解として、「モンゴルに帰国させることは考えていない。世間の納得が得られないだろう」というのがあるが、これも可笑しな話だ。裏返せば「周りの納得があれば帰国させる積りだ」ということになるからだ。こんなおバカなことを云っているからナメられるのよ。私が朝青龍の立場だったなら、このコメントを聞けば腹の中で「ふん、相撲協会なんてチョロいもんさ」とほくそ笑んでいるところだ。ここには相撲協会として興行上の弱味が絡んでいることは間違いないのだが、実に情けない話ではないか。ただでさえ相撲人気が低迷している上に、看板の横綱を辞めさせたとなると柱が無くなることによって更なる相撲離れが起こるのが怖いというあれである。スター性のある横綱がいないことは飽くまでも相撲協会というか各相撲部屋の責任において解決していくことであり、その危機感なんてものは今に始まったことではないはずなのだ。この前の場所で琴光喜関が大関昇進を果たしたことにより辛うじてカッコがついたと思われるが、問題はこれからなのである。千代大海関や魁皇関などキャリア・実力から云って横綱になってもおかしくないはずの力士が実にボロボロな体たらくになっていることこそどうにかしてくれと思う。例えば千代大海なんかも稽古嫌いなんて云ってないで、もっと努力して欲しいわけである。どうして日本の国技が外国人にこうまで席巻されにゃならんのかとジリジリするわけだ。そこへ持ってきて朝青龍問題となれば、うんざりもするがな。だからこんな情勢でもし朝青龍を破門にしたら、「日本人力士が横綱になれないことによる僻みで破門にしやがった」という協会バッシングが起こることの方を恐れているのか。そうだとしたらいよいよ情無いではないか。協会が体面を守るために朝青龍問題をうやむやにしようとしていることにしかならないからである。

 誰が見てもおかしいのは、朝青龍が複数の精神科医の診察を受けているなどという事を軽々しく認めていること診断に客観性を持たせるためという意図があるのかどうか分からないけれど、それは大嘘だと私は思う。複数の診断をもって誰が診ても朝青龍の状態は深刻なのだという空気を作り上げることで、批判をかわそうという意図があると思われるからだ。だから、病名もバラバラであるにもかかわらず、専門医の一声で「あとは誰も何も言えなくなってしまう」という玄妙な状態が発生しているのは何とも愚かな話なのだ。香山氏は、自らが診察を要請された場合はどうしただろうかと自問し、その問いに以下のような見解を付けておられた。すなわち、朝青龍に対して病気ではなく一時的なショックだから立ち直っていこうと励ますのか、バッシングから守るために何らかの病名をつけて診断書を書くのか氏は、そのどちらの選択肢も取っていない。心の病が存在することは認めても、ショックというレベルのことであるのならばあえて精神科医が深入りしないことも大切と云っておられるのだ。これは全くその通りだろう。氏が引き合いにしていた五木氏の話のように、「仕事をやる気がしない、むなしい、というのは誰にでもあること」なのだ。横綱が特別な存在であるわけではない。そんなことを云い出したら私だってストレス障害や解離性障害だと云えてしまう。確かにストレスはあるわな、だが、社会人としてある限りごく当たり前なことである。朝青龍の“病状”が想像を絶するものだとはどうしても思えないのは私だけだろうか。それを殊更針小棒大に云い立てる下らない医師がいるからこういうことになるのではないか。考えていることが実に幼稚極まりない。

 香山氏が云うように、「本当に横綱が医学的にもきちんとしたケアが必要な状態であるのだとすれば、早急に適切な環境で治療を開始すべき」だが、この適切な環境というところが今一つのネックになっているのは周知の事だ。モンゴルでの治療か日本でかという選択は日本とモンゴルの外交的なレベルにまで発展しそうな話になっているようだが、くれぐれも情緒的な解決法に流れて欲しくないと思う。モンゴルの大統領がコメントを出していたが、彼のコメントは一般市民やメディアなどとは少しムードが異なり、流石に冷静なものだった。「郷に入れば郷に従え」というのがせめてもの公正な見解に思える。考えようによっては、逆の立場だったら「モンゴルが舞台の話ならばモンゴルの基準で」ということになるので、本質的なところで解決すべきと考える私としては、ちょっとこのニュアンスには疑問が残るのであるが。それともう一つ、一部報道では朝青龍の“ストレス”の原因に夫人との離婚危機のことが取り沙汰されているようだが、私はこういうメディアが飛びつくようなプライベートな事情はこの問題に余り絡ませない方が良いと思うのだがどうだろうか。家庭問題が仕事に影響しているということも多かれ少なかれあるし、この際朝青龍が夫人に対して暴力を振るっただの何だのという部分は朝青龍の人間性をはかる一つの大きな尺度にはなるとは思うが、それをクローズアップさせる必要は無い。夫人の立場もあろうし、夫人の事情自体は横綱の去就そのものとは本来別の話である。ただし、昨日の報道で気になったのは、朝青龍が土俵上で日常のストレス発散をしているという話が流れたことである。とすると、今までファンに見せてきた憎たらしいほどの取り組み時の態度も全部ストレス発散を目的にしたものだったのか。そう思うと、個人的なストレス・怒りを神聖なる土俵上にぶつけるなどは言語道断な話だなと新たな憤りが起こってくる。元小結旭鷲山関との確執もその流れのなかで起こって来たことなのかと想像するといよいよ見苦しい。

 今朝のワイドショー番組「とくダネ!」では司会者の小倉智昭氏が「結局のところモンゴル帰国のためのレールを敷いてる話なの?」と疑義を投げかけていたが、それならばそれで構わないから「破門」の処分にしてからにしてくれと思う。ゲストコメンテーターの真鍋かをりチャンも「帰るんだったら帰れば?という気持ちになる」と云っていた。その通り、かをりチャン、よく云った。ズルズル引きずったままの有耶無耶解決はいい加減に止めて欲しいというのが紛れも無い本音なのである。


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佐賀北高校の皆さん、おめでとう! ―高校野球に見る勝負の心構えの有り様を考える― [スポーツ(野球)]

  昨日は高校野球が盛会のうちに幕を閉じた。毎年のことではあるが、決勝戦ともなると組み合わせがどんなものであれ注目してしまう。春の選抜にしてもそうだが、高校野球を代表するような学校でなくても番狂わせな組み合わせであろうとも、決勝戦に勝ち残ってきた学校と思えばこだわり無く観戦しようという気になる。基本的に私の高校野球の応援の条件は次の3つのみというシンプルなものだ。①兵庫県代表に注目すること、②公立校対私学校は公立校応援になること、③私学でも宗教色が強い学校は応援しない。①は甲子園を舞台にする高校野球のことなので、お膝元の県代表が頑張ってくれなければと思うからである。②は条件面で私学よりも不利なことの多い公立校を応援したいという気持ちからである。③については部分的に例外はあるものの基本的には宗教色が濃い学校はどうも好きになれないという理由からだ。勝負事なので結果的に私の希望通りには事が運ばないこともあるのだが、大体においてはこの自分なりの基本原則にのっとって観戦をしているのが実情だ。

 そういう中で一昨日も既に書いたが、今年の決勝戦は佐賀県代表・佐賀県立佐賀北高校と広島県代表・広陵高校の組み合せとなった。両校は共に堅守で勝ち上がってきた機動力も兼ね備えたタイプということで共通したチームである。結果は周知の通り佐賀北高校が見事に初優勝を果たしたわけだが、その戦いぶりはやはり例年通り決勝戦に相応しい内容の試合となった。当初この組み合せになるとは誰も想像出来なかったに違いない。出場校の顔ぶれをおさらいしておくと、この組み合せがいかに凄いことであったかが分かる。駒大苫小牧、仙台育英、青森山田、帝京、浦和学院、常総学院、常葉菊川、星陵、大垣日大、愛工大名電、智弁学園、智弁和歌山、報徳学園、徳島商、尽誠学園、今治西、広陵、日南学園、興南…  これ程の有力高校が集ってきている中で残ったのが佐賀北と広陵だったのだ。特に佐賀北は開幕試合を制し、続く2回戦での宇治山田商業(三重)との引き分け再試合の死闘を勝ち抜いた辺りから目を見張るものを感じてきた。8強入りで迎えた対帝京戦での粘りを見ていよいよこれは本物だと思った。正直なところ私がそうであったように、多くの人は佐賀北がダークホースになるとすら思っていなかったのではあるまいか、開幕試合の相手は福井商業(福井)という古豪であり、開会式直後の緊張から敗れ去るものと決め込んだ私は実に愚かという他は無い。宇治山田との死闘でこれは油断ならない学校と感じ始めてからは、佐賀北に一点買いな私であった。自分自身にとって縁もゆかりも無いのに。勿論、大垣日大や常葉菊川のことも気にはしていた。何しろこの二つは選抜大会でも覇権を争ってきた新興の強豪である。両校のうちどちらか1つは必ず決勝に残ってくるものと踏んできた私にとって、準決勝までそれぞれ敗退していったことを思うと、勝負というものはやはり分からないものだという感慨が残る。

 で、話は昨日の決勝戦に戻る。試合前の予想では、実力伯仲とは云いながらも、場馴れの感がある分だけ広陵高校が有利なのではないか、そこに佐賀北がどれだけ喰らいついていけるのかということをポイントにしていた。安定感のある広陵対勢いの佐賀北、たまらない興奮に包まれながら見ていた。単純に準決勝までのデータ比較をしてみると、そもそも打率に関しては広陵が佐賀北を圧倒していたわけで、いかに投手力が佐賀北が上とは云え再試合の分だけ疲労が溜まっているはずで、そこを広陵に打ち込まれやしないかというのがあった。

 事実、序盤から佐賀北の馬場君の乱調につけ込み広陵はコツコツと得点を重ねていった。緻密な試合運びにより7回までで4-0というスコアで終始広陵が押していた試合だった。広陵のエース野村君は、前日の常葉菊川戦で毎回奪三振を成し遂げた安定感のある投手。確かに菊川戦はタフな試合だったことと思う。その試合での球数は142。終盤で1点差に詰め寄られた野村君の疲労は想像以上だったかもしれない。それでも何食わぬ顔で野村君は投げ続けていた。その淡々たる表情を見ていると死角は遂に無いかのように思われた。しかしである。まさかまさかの8回裏に事態は急変していく。それまで堪えてきた疲労感が噴出してきたのか制球が定まらないままに1死から連打と四球押し出しの上満塁というピンチが野村君を襲う。そして、佐賀北にとって起死回生の副島君の値千金の逆転満塁ホームラン。このときの野村君の投げた球はスライダーだったろうか、これが浮いたところを副島君がかっ飛ばしたのである。その一球が野村君の手から放たれてホームベースに近づいた瞬間に野村君は何を思ったことだろうか。「しまった、浮いちゃった!」というところだろうか。投げられた球というものはミットに収まるか、打たれるか、守備陣のグラブに収まるか単なるファウルになるのかのいずれかである。投げられた以上はそのいずれかの結果を待つ以外にない。結果、打球はグングン伸びてレフトスタンドへ飛び込んだところで勝負あった。この場面は勿論決勝戦の決定的な瞬間となったわけであるが、本当はそれ以前に形勢逆転の予兆はあった。馬場君から引き継いだエースの久保君が佐賀北を襲う再三のピンチをしのいで踏ん張ったことがナイン全員を奮い立たせていたことは間違いないのである。0封のまま終盤に来て良い意味で開き直れたのも投手の踏ん張りと堅守のチームワークがあったればこそだったのである。帝京戦で見られた馬場崎君の堅い守りは無条件にファインプレーだった。こういう守りが出来る野手がバックについていれば恐れるものは何も無い、そんな頼もしい奴らの揃った佐賀北が悲壮感をかなぐり捨ててやれるだけの事をやろうと思い立ったら、そりゃあ広陵にとっても怖いものになったはずだ。決勝戦の前に主将の市丸君やエースの久保君が語っていたことには「ここまできたら今までやってきたこと出し切る。いつも通りにやれば、良い試合が出来る」(市丸君)、「甲子園で一日でも長く野球をやれるようにと思っていたので、嬉しさが大きい。(再試合も含めて)こんなに長くやってこられた事に感謝して、全力でやるだけ」(久保君、市丸君)と、謙虚さと甲子園で1試合毎につけてきた自信が程良く相俟ったコメントであったのだが、実に微笑ましい青春の息吹きを感じることが出来る思いだった。彼らをまとめ上げた百崎監督にも敬意を表したい。毎試合の勝利インタビューを聴いていて感じたのは、謙虚で誠実な人柄である。穏やかな口調で語る一言一言に、選手たちには気負い無く伸び伸び頑張ってほしいという願いが込められているのが良く分かった。結果的に監督が想像していた接戦とは少し違ったが、「後半で勝負をしたい」という希望通りに選手が踏ん張ってくれたことに対して「何かもう信じられないですね」と高鳴る興奮を抑えながら優勝インタビューに応えていた姿は印象深いものだった。

 副島君のホームランの前に塁が埋まっていった辺りからスタジアムが佐賀北への応援ムードで燃え上がっていたことも、広陵のナインを圧倒してしまっていたのかもしれない。あの空気が異常なほど佐賀北フィーバーだったのは何故なんだろうかと思ったが、「0封負けだけはするなよ」という思いから「いやいやこの勢いで一気に形勢を変える奇跡を起こしてくれ」という期待へ流れていったからに他ならないのである。しかも佐賀北といえば公立高校。市丸君も準決勝の長崎日大戦後のコメントで「公立が私立に勝つのは難しいけれど、強いところに向かっていくのが面白い」という言葉を残していたがまさにその通り(朝日新聞記事より)。私立の広陵に勝てば「公立高校の星」の面目躍如たるものもある。そこを思えとばかりに私がテレビに釘付けになっていったのは云うまでもない。昨夏の早実-駒大苫小牧戦の死闘から1年でそれに劣らぬ名勝負の佐賀北-広陵戦。しかも今年は西日本が主役の決勝戦となったわけで、それが関西・近畿の学校でなくてもこれだけ盛り上がれるのが甲子園なのである。振り返ってみれば、これまででもいわゆる一方的な勝負になった決勝戦は数少ないものなのだが、今回は当初予想された接戦での勝負の展開ではなく一方的な流れから始まってこれをひっくり返した劇的な決着となったわけで、ドラマよりもドラマティックになってくれた。

 これを思うに付け、甲子園のお膝元の報徳学園は何とふがいないことだったろう。初戦が青森ということで甘く見ていたとしか思えない。その報いが呆気ない0封負け。兵庫県という激戦地の代表にしては情けないこと限り無しではないか。何よりも報徳学園に対して情けない思いになったのは、試合中の表情・態度の締まりの無さだった。打たれても笑顔って何か違うのではないのか。悲壮感に満ちた表情をしろ等と云う積りはない。が、報徳ナインのそれはここ一番の勝負をしているときのものではない。四球を出しては笑い、連打で塁を埋められて笑いというだらけた表情で勝てるはずが無かろうというものだ。「ピンチの時こそ笑顔」というのがあるのかもしれないが、見ている立場から云えばみっともない姿でしかない。「もっと気合を入れんかいや!」と怒るのを越して、「こんなだらけたチームはとっとと負けてしまえば良いのだ」という気持ちにまで行ってしまうのである。皆さんはどう思うだろうか。

 こうした報徳学園に見られるような図は、折角の青春の1ページを飾る機会であるはずの甲子園という舞台に対して余りに失礼なことのように私は思うのである。これは勿論報徳学園に限ったことではない。そして高校野球だけの話ではない。そうした特別な場のみならず日常生活の中でこそ「勝ち負け」では無いけれども「勝負」という意識を持って日々を過ごしていくことが大切なことなのだという事を改めて感じたこの夏の高校野球決勝戦だったのである。何にしても昨日は本当に佐賀北高校も広陵高校も素晴らしかった。両校の大健闘を改めて讃えながら本稿を締めたいと思う。


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スタジアムについて考える ―阪神甲子園球場の環境整備によせて― [スポーツ(野球)]

今年の高校野球もいよいよ明日が決勝戦の日となった。決勝戦の組み合わせは佐賀北高校-広陵高校(広島)。連日炎天下の甲子園球場で熱戦を繰り広げてきた今年の大会も明日で終わり。個人的な思い入れとしては、佐賀北高校を応援している。甲子園の地元の報徳学園が呆気なく敗退してからというもの(勿論、他府県の高校でも応援していた高校はあったのだが)、応援していた高校がどんどん敗れ去ってゆく中で佐賀北高校の勝ち残りは際立っていた。思えば佐賀北は開幕試合を戦い抜いた学校だ。開会式直後の緊張を乗り切った後は、実にタフな試合をこなしてきたと思う。毎試合、猛暑の中でさぞ辛かったことと思うが、これだけ頑張ってきたのだから是非とも優勝旗を持ち帰って欲しい気持ちになった。広陵高校も古豪の一つ。今日中継を聞いていたら、何でも明治年間の創立ということで伝統校も良いところ。やはり格が違うのだなあと思う。私の母校などは吹けば飛ぶようなと云っては失礼な云い方ではあるが、どうにも向こう1000年は甲子園には出られないことだろう(1000年なんて要するに無理ってことじゃん)。チームを強く出来る良い指導者がいてこそなのであるが、そういう面で私立学校は金さえ積めば条件が揃えやすいという点で有利なのだろう。そう思うと佐賀北高校の快進撃には本当に期待してしまう。島田洋七さんも見てるかな。

ところで、その甲子園球場は来年から本格的に改装工事が始まるという。私は野球観戦も好きなので色々な球場に観戦に行っているが(ただし、甲子園のほかはナゴヤドーム、京セラドーム、スカイマークスタジアム、東京ドーム)、当然のことながらやはり甲子園に勝るものは無い。広島市民球場もリニューアルする予定だというが、とにかくまずスタジアムというと天然芝であることが大変重要なことで、この時点で愛着を持てる球場は限定される。要するに、甲子園、スカイマーク、広島市民、番外の公式戦準フランチャイズで倉敷マスカット球場あたり。実際に行ったことは無いけれども、横浜や神宮、宮城もどうも好きになれない。神宮なんかそれこそ戦時中からの伝統のある球場なんだから天然芝というものを重んじたらいいのにと思う。人工芝はどうにもあの薬品のにおいが漂ってきそうなイメージかあって気持ちが悪く感じることが多い。第一、選手の足腰にも悪影響だという事もある。管理コストが大変だという事から人工芝という選択になっているようだが、普通に考えて実際に野球をするのに、本物の自然の芝の上でやる方が気持ちが良いに決まっている。見た目にも良い。自然と調和した環境でプレイするのがごく当たり前のことだと思うのだ。何年か前に西武ドーム(現グッドウィルドーム)に行ったことがあるが、あの球場には幻滅したものだった。狭山丘陵の中にあって周囲が緑に囲まれた絶好の環境なのだが、全天候型ということで、側壁が除去されたドームということで風通しもよく快適なイメージがあったが、何しろ人工芝。そしていただけなかったのは外野席も寝転がれる天然芝席かと思ったら、人工芝を敷き詰めていていたからである。あんなことをするのだったら何もいじらずに雑草でも生やしておいた方が気が利いていると思ったものだ。何だか空気が薬品のにおい混じりな気がして観戦も興醒めな印象だけが残ってしまった。精々許せるのはナゴヤドーム。京セラドーム(大阪ドーム)も東京ドームも何の味わいも感じられないスタジアムだった。東京ドームはアクセスが良いことだけが取り柄、以前の後楽園球場時代の方が何ぼか良い。こう考えると結局甲子園とスカイマーク、広島市民、倉敷が良いということになる。

私は野球場にはアミューズメント施設は不要と考えている。スタジアムは野球を観戦することが第一目的であるはずで、余計な物は作らない方が良いと思うのだ。観戦に集中することが大切なのだ。そう思うと東京ドームって何なのさと思う。ああいう余計な施設を造るよりも観戦に快適な環境を整えることにもっと力を注げばと思うのである。これは東京ドームに限らず甲子園も含めて全てのスタジアムに期待することだが、障害者にも利用しやすいスタジアム、ユニバーサルデザインを取り入れたスタジアムを目指していって欲しい。先頃JR西日本が、障害者の乗車に対して2日前に事前の連絡をして欲しいなどという配慮の無く下らない広告を出してしまい顰蹙を買っていたが、日本の企業はどうして障害者というと猫も杓子も特別なヘンな意識を持つのだろうか。誰でもいつでも利用出来るものを作るなどというのはこれからの時代では特別なことでもなんでもないはずなのに、腫れ物に触るという意識が実に情けない。そういうことを引き合いにしてスタジアムのことも考えるのだが、本当に誰でも使えるということがどれ程大切なことなのかを一人ひとりがもっとカタチにしていかなければならないだろう。わが愛する阪神タイガースは球団として色々と福祉的な活動にも積極的に取り組んでいる。著名なところでは球団単位でのあしなが育英会への協力(子ども達の試合観戦招待をはじめとする)や赤星選手の盗塁数に応じた車椅子寄付活動がある。その他には選手有志の福祉施設慰問などもある。こういうことを日常的に展開している球団が関西にあることは貴重なことであるのだが、その球団がホームスタジアムにしているのが甲子園というのがなお更嬉しいことである。タイガース球団共々、今後も素晴しいスタジアムであり続けて欲しいと思うのである。


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土練機とDVDレコーダー [プライベート]

わが家はある意味変な家で捨てられないものが“一般的”な家庭より多い。勿論自宅が広いわけでもないのだが、あれやこれやごく普通の家庭にはなかなか置いていない物が色々とある。捨てられないものの代表にあるのが木材と粘土。功菊と特殊な家なんだろうと思われた方も少なくないのではないか。実際特殊かもしれない。というのもわが家は元々が父の仕事が彫刻やら焼き物やらという家だったので(否、現在それらは沙汰止みになってしまっているが、絵画(洋画・日本画とも)だけは続いている)、何かと木材・粘土系には事欠かない。狭い敷地の中で一時は電気窯も設えて自宅で焼き物を無理やりやっていたが、昨年父が焼き物を一旦諦めて(否、コストが高くつくことと住宅街で焼き物をすることが改めて憚られるというという現実的問題から断念せざるを得なくなったというのが実情である。本人はまだ未練を残しているようだが)、電気窯は取り壊した。そして現在残っているものといえば、電動ろくろと土錬機、そして木材・粘土・焼き物のための釉薬、これらはいずれも現在の父の生活の中では使いこなし切れないものに成り下がってしまい、父は今は絵画一本で美術に取り組んでいる。長年、教えるという立場であったが故に、自分自身の制作が思うように出来ず、それは父のストレスとして重くのしかかっているようで、子としては見ていて辛いものがある。自分に素質があれば少しは家業を継げていたであろうにと思うと申し訳ない気持ちもある。素質があるのならば、父の仕事を踏まえて自分のセンスを武器に美術の道を歩むのもまた悪くないと思っても見るが、現実的に考えると現在の美術界を俯瞰したところ、どうにもやるだけのことがやり尽くされていて、今更改めて美術といったところで何らの新鮮味を感じることも無いし、実は時代回帰に走っているようにも思えてならない。そういう世界で独自性を打ち出して「作家」として人生を送るのは余りにも無謀で過酷で、生活を成り立たせられないという印象もあり、それゆえにこそ私はその道に進まなかった。勿論、それ以前に自分のセンスが無いということが第一なのだが。

さて、下らないプライベートな話をしたが、一昨日はこの電動ろくろと土錬機を屋外の物置前に運び出す作業をしていた。どちらも一人で運び出せるようなシロモノではなく、父と協力して運び出した。電動ろくろはそれでもまだ運びやすかったが、土錬機の方が手こずり、仕方が無いので分解をして運び出し、屋外でまた組み立て直すという方法を取った。しかし、それでも重いものは重かった。段差のあるところなどは、例えば玄関の敷居を傷つけないように少しずつ持ち上げながらという作業にもなった。この頃のどうにも我慢なら無いほどの猛暑の中で汗だくになりながら作業をしていたが、機械いじりが好きな私は、土錬機の分解に強い関心を持ち、作業を通してその構造をあれこれ眺めていたのだった。接合部分のボルト等の部品類を間違えないようにというのは当然なことだが、それはこの機械の場合そんなにややこしいことではない。割と造りが単純なので、私は寧ろ土練機の土練り工程に注目して構造を見ていた。色々分解してみると、土を入れる場所、土が練られる部分、練られた粘土が出てくる場所という3つに大きく分けることが出来て、単純な中にもフローがしっかり組み込まれていることに当たり前ながらに感心していた。何事もそうなのだ。何かしらの物事が成り立つということは、それを成り立たしめる流れというものがしっかり設けられていることが必要十分条件となるのだ。だから、自然科学上の解明不能または困難な種々の現象群は別として、凡そ人の手で作られるものはこれまた人の手でそうなるように設計がされているのが普通なのだ。だからというわけではないが、この頃のミートホープ問題も白い恋人問題も不二家問題も、問題が顕在化するような事象もまたそうなってしまうような流れを人為的に作ったから問題になったわけであり、それが露見しなければそれで良いのだということでは決して無い。

こんな話もある。今朝は夜勤明け間近の時間に他の職員と少し雑談をしていたときにこんな話を聞いた。何でも、その人の手持ちのDVDが録画した機械で再生が出来なくなったというのだ。録画が出来てはじめの2,3回程は再生が出来たのだが、いつの間にか再生が出来なくなったという。それも読み取り作業の音はするが実際に読み取りが出来ないという。話を聞いたところどうやらDVDのディスクが壊れているわけではないのだが、さりとて録画再生機本体が壊れているというわけでもない。その人は、おれこれと調べたらしいがどうやらこのトラブルは、録画方式が再生方式と適合しないことによるものらしいというのだ。「え、そんなことあるんですか?!」と私は思わず聞き返してしまったのであるが、どうやらそうらしい。しかし、それはディスクの生産国別にも差異が生じるらしくて、すぐには解決がつく手合いのものではなく、結局その人は録画したディスクの再生をしばらく諦めて、今後の対応を検討しているところなのだそうだ。しかし、その人も云っていた事であるが、こうしたことはどこのメーカーの製品でもマニュアルには一切触れられていない。いや触れられていたとしても、「お客様のご利用のディスクによっては再生出来ないものもございます」という一文で済まされているというのが実情のようだ。以前にもこのテの話をしたことがあるが、メーカーには説明責任というものがあるわけで、「条件によっては」と云うのならば、その条件というものを詳しく説明するのが筋なのであるが、どうもこの頃はどこのメーカーも怠慢になっているように思われる。だから云ったではないか、「不具合」という曖昧な表現がまかり通るようになってからこの国の企業は無責任体質が蔓延していると。職場の人も云っていたが、これは修理代稼ぎまたは買い換えさせるための謀略以外の何物でもない。戦後62年も経ってしまうとこういうものなのだろうか。私は直接に体験したことが無いけれども、モノを大切にしなければならない時代がかつてはちゃんとあったわけで、それから考えると今は使い捨ての時代そのものというほかは無い。実に嘆かわしいことだ。そういう風だから、各種のトラブルもいわゆる起こるべくして起こるケースが多い。故障するように出来ているとか本当は思いたくないのだが、いわゆる「耐用年数」という表現では済まされない“時限使用可能期間設計”とでも云わねばならないような、粗悪なものをこれ以上作って欲しくない。かつて日本製品は粗悪品と云われ今は高級品と云われているが、今はかつてとは異なる意味で日本製品の粗悪な点が指摘されて然るべきなのではないかとさえ思う。

土練機の話から始まった今日の話は、「事実で表に現われないものは無い」と云い切ってよいのか分らないけれども、誤魔化して済ませられるというルーズな意識は決して許してはならないことだろうと思う。


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生活現実から選挙を見詰めることの大切さ ―政治パラダイムの転換を考える― [社会学]

ある物事について何らかの評価を下すというのは、実は自己にとって快・不快の感情を伴うものが少なくない。そして、それは単なる感情の問題ではなく、自らの価値基準に照らした時に受容し得るかどうかという点も少なからず関わっている。例えば、テレビや新聞などのメディア報道に接している時に入ってくる情報に対してどういった感想を持つかというと、その情報が自分の価値判断・感覚として受容可能なものかどうかということが一つの軸になる。勿論、それのみで評価・判断が出来ることばかりではない。微視的または巨視的な視点を踏まえて総合的な見地から捉えることで、感情論のレベルは大抵吹っ飛ぶものがある。生活現実に照らし合せて社会を捉えるというのは、実際のところ入口は簡単なようでいて難しいものだ。生活環境はそれぞれに異なっているし、そこで身につけている価値基準も千差万別。銘銘が思う理想の生き方などというものはまさに不揃いなものであり、法律があることによって辛うじて公序良俗だの何だのというものがまとめられて「ある一定の規範」が諸個人の生活において機能させることが出来ているに過ぎない。これについては、社会学全般的な課題として更に掘り下げて考えることで実証的に本質が明らかになるものと思われるが、実にこの頃は社会全体がより一層ファジーな時代に突入してしまった感があり、私自身も価値観の揺らぎを多少とも体感している。云いたいことを云えるのは良い事だとは思うが、云ったことに対する責任ということを考えるとそれが持ち切れるかどうか全く不安がないわけでもない。それは自分が考えて発言しているのことに対して不特定多数の他者がどう感じるか、非難の目を向けてくるんじゃないのか、嫌な人間に思われるんじゃないか…などという低次元な不安ではない。他人がどう思おうとそれはある意味ではどうでも良いことでもあり、また仕方ないことであるのだ。それを逐一気にし過ぎていたら、発言すべき時に何も云えなくなってしまうことになりそうで、寧ろそうなることの方が怖い気がする。問題は、自分の発したコトバというコトバが自己と乖離せずに整合性を保てるのかというところだ。環境の変化によって価値観の変化を余儀なくされることもあるが、それは自分が状況について一定の納得をして変えていった結果のものであればまだ良い。そんなことを考えながら社会の動きを見ている毎日の私だが、今回は先頃の参院選の結果を受けて、これをどう理解するのかという点で色々と記事を追いかけている。その話をしておきたい。

皮切りは、8/3(金)付毎日新聞の「発信箱」というタイトルの記者コメントコーナーの記事であった。勿論、今回の参院選についてはその前後から年金問題やら元農水大臣の自殺やら前農水大臣の資金流用費問題、前防衛大臣の問題発言など枚挙に暇も無いほどに政府・自民党の不祥事・不手際が続いたことで、同党に対する逆風が激しい状況の中で様々に展望が語られてきており、実際に私も高い関心を寄せて投票もしたし色々なことを考えてきたわけだが、この8/3の記事はいかに逆説的な意味合いでの発言としても、首を傾げたくなる思いの記者のコメントがあった。寄稿者は同新聞社の経済部記者の中村秀明氏である。氏は寄稿において、敢えて安倍晋三首相の続投支持を表明しておられるのだが、私が引っかかりを覚えたのは続投支持の理由説明がどうにも物見遊山的な印象を禁じ得ないものだったからだ。氏は、続投の決断が世間の予定調和を崩して、前代未聞の事象が起こることに期待を寄せているようだ。即ちその「前代未聞」とは、一に求心力を失った「死に体」の首相に何が出来るのかということへの関心、そして今一つは対峙する民主党の今後への関心、そしてさらには本格的な政界再編へのシナリオへの関心へと繋がっていくものであるとの事だ。氏のコメントは短いものなので真意の程は測りかねるが、興味が尽きないこととは云え、読み手の私にとっては温度差のあるコメントだと感じ、氏の認識を問い直してみたい思いに駆られたのである。

氏が云わんとする意味合いが分らないわけでもない。実際のところ22%そこそこだといわれている内閣支持率の低調振りを見れば、年金問題をはじめとして私たち国民を長きに渡って騙し続けてきたことへの批判は当然なことであり、その為に死に体に陥った安倍内閣、その脆弱な求心力の政権に今後何が出来るものかとくとご拝見という思いもある。安倍氏が責任を果たして行きたいのだと声高に叫んでも大半の国民はもうそんな「美しい」たわ言には騙されないことであろう(ただ、注記しておくならば、斯くの如き結果になるまでの間、私たち国民の多くの側には実は戦後ほぼ一貫して自民党を支持してきたという責任があることは忘れてはならない。戦後の資本主義・民主主義社会の形成の過程において、自民党でなければ現在のような“豊か”な社会が実現出来たかどうか分らないという歴史的な必然性を考慮に入れた上で、その「功」だけでなく「罪」の部分も少なくないという視点が不可欠だからである)。たわ言であってもなお安倍氏を支持する国民はいないわけではない。その大半は私の観るところ既得権益にしがみつく政財界をはじめとする階層であるか、無知でミーハーな国民であるかなわけで、そうした人たちに生活現実から事の本質を洞察して、真っ当なる政治的な選択をするよう求めても土台無理な話なのだとは思う。中央と地方との格差是正についての認識も是正しなければならないという声が起こっていることは事実なのだが、これについての国民と政府・自民党の認識の間には埋めようの無い程の溝があるのにも関わらず、いざ選挙となれば無批判に自民党支持という状況が続いてきたことは情けない話ではある。ただ、東国原宮崎県知事の言説ならずとも、今回の参院選における自民党敗北はまさに国民の生活現実を通した怒りがそうさせたものであり、民主党躍進も反自民党の受け皿としての意味合いが色濃く、それだけに民主党は大勝に浮かれるなという話になるのだ。私は現今の政党政治に期待は出来ないというスタンスはあるものの、やはり自民党の出鱈目政治に鉄槌をという思いで投票した一人ではある。私はとにかく安倍的なるものというかこれまでの自民党一党支配(現在は連立政権であるが、実質的には単独政権)の状態を打ち止めにして、真に国民のための政治をする政治家に国政を託したい思いで投票したので当然ながらそれは批判票ということになった。実際のところ国民の多くは政治の世界に対しては冷めていて、特段の期待感も持てないまま、とにかく自分たちの暮らし向きが少しでも良くなって欲しいという素朴な願いの中で一票を投じるというのが現実であり、こうした風潮は勿論選挙というシステムは無いにしても飛鳥の昔から本質的には変わらないのだと思う。旧くは蘇我・藤原の対立や天智・天武の抗争、源平の争乱と続き、徳川幕藩体制に至るまでとにかく政権が次々に変わっていく度に国民は多大の犠牲を払い続けて生き抜いてきたわけである。彼ら為政者に国民の実情がどれ程見えているのかという課題は、覇権争いの渦にスポイルされてしまい、国民不在が常態化してしまっていることをどうにも出来ないもどかしさがあるわけだ。それだけに折角の参政権を持って投票するということが国民の声をあげる殆ど唯一の手段であるということの重みをもって、私たちは生活をしていかなければならない。それが社会構成員たる者に課された義務であるという視点から見ると、今回採り上げた毎日新聞記者の中村氏のコメントはどうにもお気楽感が禁じ得ないものに私には映ったのである。

折りしも、昨日は戦後62年の終戦記念日。その戦没者慰霊祭の席上で河野洋平氏が発表した式辞においては、「戦後レジーム」という表現を用いて河野氏は安倍首相の思想に対して批判的な姿勢を示したことが毎日新聞や神戸新聞の昨日の夕刊で報じられていたが、朝日は河野氏の言葉を掲載していなかった。これが何らかの意図的なものであるかどうかは定かではないが、私は河野氏のコメントを重く受け止めている。同じ政党に属しつつ衆議院議長という立場での発言として現政権の方針に異議を唱えるコメントを出すというのも勇気の要ることだったと思うが、私は率直にこれを評価している。河野氏のようなニュートラルなリベラリストがいてこそ政治は一定の健全な姿を保てるのだろうと改めて思うのだが、今後の政治の変遷になお一層注目していきたいと思っている。


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米国流利己主義のあらわれとしての「ウィキペディア」引用禁止措置について [日本史]

私は普段から気になる新聞記事は切り抜きをして色々なことを考える一つの参考にしている。職場では複数紙が置いてあるので、同じテーマについて読み比べをしてそれを材料の一つにしながら自分なりの見解を普段からまとめておくのが日課なのであるが、今日もまた気になる記事を見つけた。今年2月23日朝日新聞朝刊の記事の一つである。『「ウィキペディア」頼り 誤答続々 テストへの引用禁止―米名門大―』と題するものである。事のあらましを紹介すると大体以下のようなものになるのだろう。

米バーモント州のミドルベリー大学史学部が、学生が「ウィキペディア」を試験やレポートにおいて引用することを認めない措置を決めた。日本史を担当する同大のN.ウォーターズ教授が、ウィキペディア(英語版)の「島原の乱」(1637-38)をめぐる記述について、20数人中数人の学生が「イエズス会が反乱勢力を支援した」と記述したことに気付いた。この記述は教授の理解していた「イエズス会が九州でおおっぴらに活動出来る状態ではなかった」という内容とは異なるため、この“間違い”を正すために原因を探っていたものである(“ ”は筆者による)。同学部では「学生は自らの提供する情報の正確さに責任を持つべき」という見解の下、「ウィキペディア」の引用を禁止することにした。学生の多くは納得したが、「教員が知識を限定しようとしている」との不満も出た。今回の記事については、ニューヨークタイムズ紙がこの問題を取り上げた21日、修正された。      <朝日新聞の記事の要約として>

日では私たちはネット環境があれば、いつでも知りたいと思う情報を入手出来るという一定の恩恵に浴している。分らないこと・知りたいことを探し当てる手段としてネット検索というものが身近になってきているわけだが、「ウィキペディア」も検索エンジンに劣らずの有力なツールであることは否定出来ないものがある。しかしながらそこに記述されている内容の確かさという部分には常に慎重であらねばならないことは云うまでも無い。自由記述などということでいくらでも加筆・修正・編集が出来るとなればなお更のことである。一般に昨今のネット閲覧者・読者は情報というものに対する依存度の故に、これを素のみにしやすい傾向があることもまた然りである。だから、正確さは幾重にも検証して、極端な話そのテーマに関わる現場に行って自分の目で確かめるというところまでしないと真実・事実・真相は見えてこない事だってあるのだ。それを思うと、情報化社会のこれもモラルの問題であり、リテラシーをしっかりさせておかないとえらい目に遭う危険は計り知れない。だから記述は公平・公正にして事実を客観的に巨視的に捉えて行われるべきであるということを前提にしておく。

と、ここまで書いたことは実は誰でも思う話であり、他のブログでも同様なコメントは数多く存在しているようなのだが、ここからが私のもう一つの見解である。

私はこの記事を目にしたとき、これは米国の歴史観の本質的な事が大きく関わっている話だと感じたのだ。ポイントは、このミドルベリー大学史学部の教授が取り上げた「島原の乱」というテーマの解釈にある。そもそも何故「島原の乱」なのかという話もあるのだが、それはさておいてもこの「日本の庶民のクーデーター」について当時のイエズス会がどのような関わり方をしたのかどうかという点について、「反乱勢力を支援した」というのが間違いだとしたのは何故なのか、そこが肝だと思った。この点がおよそ日本人とアメリカ人の歴史観の相違の象徴になるところだと思うのだが、私はこのウォーターズという教授はイエズス会の活動の正当化のために、会が乱を煽動したわけではないと云いたいために、ウィキペディアの記述を間違いであると結論付け、学生たちの引用を禁止したという行動パターンを取ったように思えてならないのである。この頃の私は特に米国流の利己主義に極めて強い不快感を感じているから余計に思うのかもしれないが、キリスト教が伝来したとされる1549(天文18)年当時のイエズス会の活動には明らかに宗教の名によって日本占領を企図していた事実が記録としても残っていることをまさかこの教授も知らぬはずはないだろう。勿論、その後のわが国では秀吉も家康もキリシタン禁令を出し、果ては元和の大殉教を強行せざるを得なかったことも含めてである。この事実は恐らく米国においては小中学校では真相を教えるなんて事はしていないことと思われる。都合の悪い事実は教えないのが帝国主義の特徴の一つであるから、日本が戦前戦中の時代にアジア大陸に対して行った残虐非道も、国民には「アジアの開放」のためというカタチで正当化されて伝えられていた事実には批判の眼を向けているものである。如何なる理由があろうとも、正しくないことは正しくないのだという判断が出来てこそ何ぼなのであって、それを踏まえた上でなければどんなに正しいことを唱えても説得力に欠けるのは云うまでも無い。覇権主義・帝国主義の国にあっては都合の悪いことは国民に知らせないということで特別驚くことでもないのだが、例えばこの教授をはじめとするミドルベリー大学史学部の教学の方針は明らかに「イエズス会活動の正当化・擁護のために持ち出された引用禁止措置」という他は無いように私には思われる。

私は信仰の自由を否定する立場は取らない。が、同時に宗教の怖さということを歴史から大いに学んできたため、一切の信仰心は持たない。例えば仏像・神社仏閣を鑑賞したりするのは信仰からではなく、単に歴史への関心に基づくものであるだけだ。興福寺の仏像群などに対する思いもその歴史的な価値を重視する以外の感情は持たない。その仏像が語りかけてくる歴史の事実やその雰囲気・息吹を鑑賞しこれを堪能する以外の思想的な話は私の中にはない。

そんな形で日本史に親しんでいる私から見ると、ウォーターズ教授の「島原の乱におけるイエズス会」に対する理解は、いわゆる「白人の論理」に基づく史観で彩られたものでしかないのは明らかである。わが国には伊達政宗という奥州の大大名があったが、彼は好きあらば幕府転覆をと目論見、スペインから艦隊を借り受けて事を起こそうとした人物としても知られる。外圧頼みのクーデターの首謀者となったわけだが、それはそれなりの理由があったとしても、いくら政宗が好きな私でも「これはいかんよな」と思っているくらいである。ましてやイエズス会ともなると、初め口当たりの柔らかい態度・物腰でわが国にやってきて異文化を色々と持ち込んでわが国の国民を驚嘆させたところで、我々西洋に靡かなければ徹底的に占領してしまうぞと威嚇するというやり口であったことは、ザビエルがイエズス会本部に宛てた書簡の記述にも残っているのである。だから、ウィキペディアの「反乱勢力を支援した」という記述が間違いとは云い切れないのだが、それを“間違い”と決めてしまっているところに教授をはじめミドルベリー大学の極めて米国的な歴史観を見ることが出来る思いがするのである。ウィキペディアが記述内容について、作成・削除・修正・加筆などあらゆる編集が可能であるツールだということを了解しておれば、別にここまで教授が目くじらを立てることもないのかもしれない。ただ、発言にはやはり万全・細心の注意を払いながら行われることが肝要であることは間違いない。

戦後62年の終戦記念日を迎えた今日、この記事を再び目にしたことはちょっと象徴的な出来事にはなった。

参考 Okamura’s Blog                            TOKYO ROCK CITY     

    ウィキペディア問題についての産経新聞記事               OFF MIKE


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ドレスデン爆撃の事実を知る意味では良い作品だった「ドレスデン -運命の日-」 [映画]

 今日もまた映画の話をする。10日(金)にもまた映画館に行った。私の映画館鑑賞も今回で4作目ということで、本当に暇とねらい目の映画を探しては映画館に足を運ぶようになったものだ。今回は、第二次世界大戦末期のドレスデン爆撃を舞台にした『ドレスデン-運命の日-』(2006年ドイツ作品)である。これまでのところ『今宵フィッツジェラルド劇場で』からの鑑賞ツアーアメリカフランススペインと渡り歩いてきて今回がドイツということで、各国の映画作りの違いも色々と見えてきたところであるが、それ以前に私にとっては歴史に名高いながらも知らずに来たドレスデン爆撃の実態を知る格好の機会となった。劇場版は150分だったが、元々はドイツのテレビ映画ということで180分であるらしい。ついでに劇場公開は今のところ日本だけのようだが、海外の公開となると第二次大戦の同じ敗戦国である日本が受け容れられやすいという事情が関わっているのであろうか。

 本作は4/21から順次全国公開されているところなので、既にご覧になった方も少なくないと思われる。私が観た神戸・三宮シネフェニックスでは今月24日まで上映されているということなので、まだの方は是非見ていただきたい作品である。是非観ていただきたいとは云ったが、実のところ映画芸術的にどこまで優れた作品なのかどうかは専門家じゃないのでもう一つ分らないが、率直な印象として空爆計画を立てる連合軍の会議の緊迫感や空爆シーン自体は実に丁寧に作られた作品だという事だけははっきりと云うことが出来る。評価出来ることといえば究極的にこの一言に尽きてしまう。この時点で「観る価値無し」と即断されると折角の作品紹介の意味が無いので、しっかりとコメントしておきたい。

 話は第二次大戦末期の1945(昭和20)年1~2月のドレスデンが空爆された期間の人間模様をテーマにしている。あっさり云ってしまうと<戦火の中でのラブ・ストーリー>なのであるが、恋仲の男女は敵国同士の関係というところがポイントになっている。父親の勤める病院の看護婦として働く24歳のアンナという女性が主人公。彼女には婚約者のアレキサンダーという男性がいたが(父親の決めた相手であった)、空爆中に撃墜されパラシュート降下でドレスデンに降り立った一人のイギリス人負傷兵との出逢いが彼女の心に”運命”的な火をつける。あろうことか敵国人のこの負傷兵ロバートに心惹かれてしまい、アンナは自分の病院内に彼を匿い、二人は次第に心を通わせていく。当然ながらこの事実を父親が知る段になり、アンナは父親から激しく叱責されロバートと会うことを禁じられる。ロバートも病院内に”留置”され、これで2人は今生の別れになる、と思いきや、父親の制止を振り切ってアンナはロバートの元に駆け寄っていく。そうこうしているうちに、空爆が本格化する2/13がやってくる。この日の夜9時45分こそドレスデンがあたり一面焼き尽くされる始まりとなったのである。この爆撃で逃げ惑う中、アンナの父親が爆風で足を吹っ飛ばされたことがもとで死んでしまい、アンナも婚約者アレキサンダーやロバートともに戦火の中を逃げ惑い続ける。アレキサンダーは、婚約者のアンナがロバートと情を通じていたことに不快感を示しつつも戦火の中を逃げる時は一応”助け合う姿”を見せる。しかし、ロバートが崩落した建物の中で動けなくなってしまったときにアレアレキサンダーはアンナにロバートの救出を諦めさせようとする。が、アンナはアレキサンダーを振り切りロバートとともに行動をともに・・・。

 結果的に奇蹟的に3人ともそれぞれに助かって空爆の中を生き延びるのだが、これだけ書いていても少々幻滅するほど、アンナを中心とする3人の心の描写が弱い。そもそも、現実的戦時下でばったり出会っただけでにかくもあっさりと敵国人同士が心惹かれ合うというケースがどんだけあるのかと思う。アンナが看護婦という立場であるからして”人類皆兄弟”というデュナン的な思想に基づいてロバートを助けた、としてもである。惹かれちゃったものはしょうがないと云ってしまえばそれまでなのだが、それは説得力が余りにも無さ過ぎるものである。それ相応に惹かれるための条件がもっとなくては、見ているこちらとしてはちょっとどうなのかなあということになってしまう。しかも惹かれてしまった先に肉体関係まで持ってしまうというところが、まさに「アンナ、そんなことで良いのか?」なわけだ。

そんなこんなで、本作は登場人物とストーリーそのものの展開ということを考えると明らかに駄作に成り下がってしまっている。折角だったのにと思われた方も少なくないだろう。ただ、空爆のシーンはリアルで迫力もあった。制作費1000万ユーロは伊達じゃないなとも思うのだが、何よりもリヒター監督はドレスデン爆撃の事実を忠実に伝えること・公平な目で伝えることに普請していた節は伺える。その視点に立ってドレスデン爆撃を見詰めるには程好い作品となったということだけは確実に云うことが出来るのである。


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