So-net無料ブログ作成
検索選択

2ヶ月ぶりの復帰!③たーぼ、文章を書くことについて考える [プライベート]

見出しのタイトルで書くブログが3回目となった。久しぶりのブログ更新だ。この頃は、在学する大学の学内SNSでの学友たちとの語らいが中心になりすぎて、ブログのほうが疎かになっている。前回のこのブログは、社会福祉実習とその事後処理からどのように変わったのかを簡単に書いたが、それから2ヶ月の私の状況は、正直特筆すべきことは無い。学内のレポート課題に追いまくられたことと、国家試験対策の勉強がにっちもさっちもいっていないということを除いて。そんな中で、学内SNSの中で、書き綴ってきたもののなかで、私自身印象に残っているものを今回は再掲しておきたい。

 既に何人かの学友の方にご報告したことであるけれど、今年度取り組んできた「社会福祉援助技術演習」の課題レポート6題が完成し、無事に提出投函まで完了した。
 他の受講者にとっても同じかもしれないけれども、この科目のこの課題レポート群を仕上げたこと、それも期限内のこの時期に仕上げられたことは私にとってとても大きいことだった。国家試験対策の観点でいえば、現在3回生の皆さんならばまだ時間的なゆとりはあるかもしれないのだが、4回生の場合はそういうことは一切ない、と言って良いからだ。
 この科目のレポートについては、この1年間近くの間、実にすったもんだをしてきた。詳細はここでは述べないけれども、私の場合は、この科目のそもそものねらいについて一定の理解はしつつも、設問のあり方という点ではとことん科目担当の教授宛てに噛み付いてきたのは事実である。そして、その思いはそう簡単に消え去るものではなく今も納得がいかない中にある。しかし、現実的に課題レポートを提出しなければ修了試験にも到達できないという事情があって、やむなく取り組んできたというのが正直なところだ。
 誤解を避けるために敢えて断っておくが、私はこの科目のレポートに取り組む上で「労力」云々で不平不満を言い立ててきたのではない。社会人学生としてのしんどさがあろうと何だろうと、その辺は学生の本分としての最低限のことはするのが当然だと弁えているからだ(これは当然なことですよね)。
 そうではなくて、この科目の個別の設問の中には、資格取得の前提として"必ず取り組まなければならない"ような性質の設問は実質的に半分しかなかったと思っている。踏み込んで言えば、設問としては個人のことに立ち入り過ぎという意味において大変不適切な設問もあり、その点についてはこれまでにも何度となく、科目担当の教授に改善を申し入れてきた。が、結果的にはゼロ回答。私はまずそのことに大いに失望した。
 そういう中で、敢えて己を滅して取り組まなければならないことに憤りを覚えながらここまでやってきた。憤りというのは、直接的には私の考え方が教授に受け入れられなかったことであるが、それ以上に対話を誠実にしてもらえなかったことが何より悔しかった。
 担当教授は果たして1回の回答コメントだけで私が単純に納得できると思っていたのか・・・。もしそうだとしたら、とんでもないことだ。基本的にプライバシーに対する配慮という意味では、安全性の担保力と説得力は脆弱であったし、そういう限界についての配慮に欠けた教授のコメントの単純さに「この人はこういう観点でしか物を考えられない人なのか」とつくづく呆れたものだった。

 しかし、それはそれとして、あれこれ考えながらも一通りのレポートを仕上げることができたのは良かった。そもそも、私は普段は割合にアバウトな生活(いいかげんなということではなく、ラフなという意味で)をして、何か事を成す場合は事前準備というか検討というか、そういうことをゆったりと時間をかけ、本格的な作業は短期決戦型であることが多い。それゆえ、レポートも普段は殆ど時間をかけない。もちろん、書いた後の推敲の作業はシビアにするけれども、それでもそんなに時間をかけたという経験は余り記憶にない。私にとって文章を書くという行為は既に中学生時代からごく当たり前のものになっているからでもある。書くということに基本的に抵抗感は全くないのは、私にとっては幸運なことだと思っている。
 でも、何を書くか・どういう形で書くのかという点は、本当に難しいことだろうと思う。何より、文字(テキスト)として可視化する行為としてとらえたとき、書き手と読み手の対話を意識することは不可欠だからだ。
書かれた文字・文章は書き手の"主張"に直結する重大事案であり、読み手に対する「衝撃」を与え得る力も持つことがある。そういう視点で考えると、たかがレポートされどレポートなのだと思わずにはいられない。

今回の「援助技術演習」のレポートで、果たして私自身がどこまでそれを相手(担当教授)に伝えられたのかは分からない。が、少なくとも与えられたものに対しては、私自身の能力の範囲でとことん誠実に向き合うことに努めてきたことだけは確かである(いかにそのものに対しての不満があったとしても、それはそれこれはこれである)。これで、本学の通信教育学部での学習も一応、この科目の修了試験レポートを残すのみになった。

 私は、もちろん、これからも科目修了試験レポートにとどまらず、書くことにこだわり続けるとは思うが、今回の課題レポートで、自分にとって書くということがどういう意味を持っているのかをあらためて確認できた思いである。
 「書くこと」についての苦痛を感じておられる方は少なくないとは思う。でも、幾分大仰なことを言うならば、何を語るのか、どう語るのか、なぜ語るのか("語りたいのか"から"語らなければならないのか"までを含めて)、などの点を掘り下げることは決して人生において無駄ではないと思う。そこから見えてくる自己というものにきっと出逢えると私は強く感じているからである。その自画像は過去であるか未来像なのかはわからない。けれども、どんな自画像でもそこに自分の存在というものの確かさを実感できるのではないだろうか。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL:
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

関連リンク

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。