So-net無料ブログ作成
検索選択

モラルの低下はそこらここらにあるある! ~一連の食品関係の報道から考える情報過信社会批判~ [社会学]

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という言葉がある。何かしら問題が起こっても、ある程度時間が経てばその事実が忘れ去られ、また同じような問題を起こしてしまうことを意味する。その背景にモラルの低下ということが関わっているのが最近のわが国の一つの姿だろうと思う。この頃は連日のように日本のどこかで色んな会社の代表らが謝罪をしているニュースが流れる。中には、一つのテーマについて繰り返し映像が流されているものもあるのだが、それでなくても謝罪バーゲン真っ盛りではあろう。いい加減に見飽きた。というか、とにかく情けなくなっているという一言に尽きる。納豆健康法報道問題、不二家問題、雪印問題、これらはいずれも私たちの健康に関わるテーマなのだが、正直憤りを通り越している。これらの問題については、すでに多くの方々が色々と論じていて私などがコメントするのも今更なのではあるが、やはり云わねばならない。私は、納豆やケーキの問題の一つひとつを掘り下げて論じることはあえて控えておくが、総じて日本人のモラルの低下という視点で述べることとしたい。

 

私は一連の食品関連の諸問題に接して、普段の食生活全般が大変不安になっている。勿論、普段からわが家の手作りの食事というものを大切にしているのだが、買い物をしても買った物について一々疑いの目を向けたくなっている。これは安全なのかどうか大手のメーカーのものですら疑わしいという感覚なのだ。不二家のことに絡んで云えば、私はチョコレートが好きで良く買うのだが(元々不二家以外のメーカー製品を買っている)、不二家でなくてもこれは大丈夫だろうかと一瞬考えてしまう。「まさかねえ、このメーカーはそんな出鱈目してないよねえ」と思いながら、安全であることを期待しながら買うのだ。勿論、これはチョコレートに限らず、あらゆる製品に対してそういう思いを持つようになっている。というのも、ここ数年の間にBSE問題・鳥インフルエンザ問題や雪印問題などが、立て続けに社会問題となったことが大きいのだが、私たちが何を信頼していいのか分からなくなっているということが最大にして基本的な理由だ。とくに、食品の場合は健康に影響することであるだけに深刻なのだ。牛肉・牛乳や鶏肉、ケーキに共通するのはその衛生管理の杜撰さであるが、食品メーカー生産・販売者も消費者もあの雪印問題で一体何を見てきたというのだろうか。そう遠くない昔の話なのに、何も教訓を学び取ってないのではないか。

 

一方で、今回の「あるある大辞典Ⅱ」の納豆ダイエットについての捏造問題。私は番組自体を観たわけではないが、一連の報道に接してきて番組の製作者(テレビ局含む)、これに踊らされてきた視聴者、これをやたらめったらに追及し続けているメディア各社らの愚かさにあらためて辟易している。彼らは皆それぞれに自己の責任をどこかに追いやって互いに擦り付け合いをしているように見えるのだ。先ずは番組を放送したフジテレビグループ。関西テレビ社長の謝罪会見は、一応は謝罪した形になっている。しかし、その表情にはどこか「謝罪はしたくないが批判が大きいので渋々」という色が濃く残っていたように思ったのは私だけではなかろう。納豆の健康上の効果は勿論、否定するようなものではないと思う。私も納豆は好きで良く食べるが、そもそも血栓予防に効果があるということで知られているのだ。食べ過ぎなければ健康に良いということは以前から云われており、今回の放送でも健康被害に遭ったという報道はされていない。美味しくて健康に良いということであれば食べない手はない(納豆アレルギーの方には美味しいよと無理には勧められないが)。しかし、データや番組構成の捏造でダイエット効果を強調するというのが情報番組として許されないことなのは明らかだ。そのときの放送を受けて、スーパーなどでは納豆の買占めで品切れ状態があちこちで起こったという。テレビの影響はすさまじいものだ。これは、あの往年のオイルショックや牛乳問題を思い起こさせる事態だ。私は世代的にオイルショックを直接肌で感じたことはないのだが、あれも色々調べてみると相当おバカな話だったようだ。「戦争特需で石油が枯渇するからトイレットペーパーが買えなくなる」、こんな流言蜚語を真に受けて買占めをしたというのだから、何をかいわんやである。この消費者心理に関わる話は勿論後述するが、番組製作者側に捏造についての罪の意識の欠如が見られることが一つの大きな問題だ。実際のところ、製作者側が「この程度のことは大した事でもないし、ばれなければそれでいいしばれてしまったときは揃ってテレビカメラの前で頭下げてればいいんだろ」なんてことを考えているのならとんでもない話だろう。問題が明るみになってからの報道を見ると、関西テレビの説明では「取材交渉が行き詰まったことで、スタッフが追い詰められた」というような話をしていたが、これは言い訳にもならない釈明だ。情報番組は情報のネタが命であり、それが途切れることはすなわち番組の終結(打ち切りを含む)に繋がる。それゆえに何かしらのネタをいつも用意しておかなくてはならない。そういう状況の中で毎週の放送を回さなくてはならない。これは相当ハードなのだが、そのために根拠が曖昧であろうと構わないという意識で番組を作るなどは言語道断だ。ダイエット効果を示すために使われた写真などは、そこら中に出回っている怪しげな雑誌広告そのものだろう。こんなに痩せることが出来ましたっていかにもいかにもな写真。三文雑誌ならいざ知らず、テレビがそういう宣伝をするとは呆れてものが云えない。今は、何かと健康ブームであり、健康に関する番組はやたらに増えている。それらの中には、取材で得た情報について必要な裏付けをとって、信じるに足り得るものを提供している番組もあるとは思う。しかし、「これがこれこれこういう部分の健康にいい」と報道されると、その日はその食品の売れ行きがやたら良くなるという現象はどうなのだろうか。ことに、司会者が「今日の夕飯はこれで決まりよ、奥さん!」なんて語りかけちゃうものだから、宣伝効果覿面である。しかし、それが本当にそうなのかどうかをしっかり把握もしないうちに、体にいいというフレーズだけであっさり鵜呑みにしてしまう視聴者の姿勢も反省が必要なのは云うまでもなかろう。

 

そもそも、テレビ局の間違いの一つは、この頃のこのテの番組がちょっとした薀蓄番組などと同様に教養番組と位置づけられて重宝されていることに胡坐をかいていることだ。特に民放各局でタレントらの出演によってバラエティータッチで報道するのは親しみやすさを込めて番組を作っている分には構わないが、視聴者に与える影響ということに配慮が足りない気がする。薀蓄番組についてもこれは共通する。日本史が好きな私は、某民放局の日本史偉い人グランプリというような類の番組を観ることがあるが、あるタレントが取り立てて何でもないような基本的な内容(本能寺の変で織田信長を誅滅した人物は誰かという質問程度)を知っていただけで周りが驚くシーンなど、本当にバカバカしくて観ていられなくなる。出演しているタレント達の無教養ぶりも嘆かわしいけれども、それ以上にそういうことでワーワー騒ぐことで視聴者の関心を惹くような番組作りをするテレビ局とそういうものを無批判に楽しむ視聴者が多いことが情けないのだ。何だ、お前も見ているんじゃないのかと突っ込まれそうだが、私はいつもテレビは何らかの批判的な目を持ちながら観ている。それが正しいことであるのかどうかはテレビや新聞だけで決めることはない。こういう話をすると人によってはイヤミに聞こえるのかもしれないけれども、これは私の生活信条である。

 

回の放送による視聴者の態度も抗議が殺到したそうだが、その情報を信用するかしないかは個々人の責任であるということを全くそっちのけで抗議している人も多いのではないだろうか。「試したけれど効果が現れなかった、どうしてくれるのか」とか、「折角買い込んだのに番組内容が捏造だったなんて」という声、声、声。気持ちは分からないでもないけれど、自分の責任で買ったことについて省みることはないのだろうか。そもそもが普段ろくすっぽ健康に留意せずにテキトーに食生活をしてきておきながら、こーゆー時だけガーガー文句を云い立てるなんて、その身勝手さは何なのかと云いたい。自分のいい加減さを棚に上げて人のことを非難するのは簡単だろうが、恥ずべきことだと思う。深く考えずに安易に信じ込んでしまう性格の人なのであれば、そういう性格が良くないと自覚するならばまず自らを改めることが先決だろう。品切れになってしまうほど大挙してスーパーに押しかけて買い込む行為、当人たちにとってはダイエット効果ということしか頭に残っていないわけで、実に単純というか何というかだと思う。受け止めた情報を取捨選択するという肝心なことをまるでしていない連中が無駄買いしまくるのだ。ごく普通に考えれば、特定の食品が直ちに健康上の効果をもたらすということは極めて稀なことであることは誰にでも分かることなのだ(たま~にそんな例もあるかもしれないという程度で、無いとまでは断言出来ないが)。

 

勿論、マスコミの報道加熱も焦眉の現象である。マスメディアにあってはありがちなことなので今更驚くことでもないがなぁ。雪印問題をはじめとして食品関係に限ってもこれまでやたらに当該の会社を攻撃し続けているが、彼らに企業倫理を問うような資格はない。世に「マスコミの暴力」という言葉があるが、彼らマスコミ各社自身も自らの問題群(飲酒運転、猥褻問題、放火事件、インサイダー取引etc…)を棚に上げて良くもまあつらつらと云えるものだ。てめえらの不始末を正してからモノを云え!と思う。この頃の報道には、いかにも「私たちこそが社会の不正を暴いて世直しをする主体なのだ!」と云わんばかりな風潮が蔓延しているように思う。消費者や視聴者はバカではない。いや、バカも多かろうが、健全に物事を見つめて判断出来る人間だってちゃんといるのだ。何もマスコミが正義面をする必要は無いし、そんなことは迷惑な話だ。確かに、官僚制機構の枠組みを持った政治体制・国家権力と向き合う場合、マスコミの果たすべき役割は、権力者サイドが都合の悪いことを隠蔽しようとするところを明らかに国民に知らせていくという面がないわけではない。しかし、それにも限度というものがある。社会正義だのなんだのとは云うが、今の状態は視聴率獲得のために問題を突付きまくっているとしか思えないことも多いのだ。それが大衆迎合主義と批判される要因であることを自覚すべきだ(ただし、大衆迎合主義ということそのものはマスコミ・為政者双方に共通して投げかけていくべき批判事項であることも付言しておく)。

 

情報が溢れる現代社会において、情報の質ということが益々もって問われるべきなのだ。分かりきったことだが、情報というものは送り手と受け手いう関係が成り立つ。テレビや新聞というものはその最たるものなのだが、「視聴者に役立つものを」と云いながら実質的には送り手側の視点で情報は送られている、この何でもないようなことがしっかり認識されないところに過信・依存が生まれるのだと云わずにはいられない。便利だから、美味しそうだから、何だか良さそうだから、などという短絡的な考え方ばかりで生活しているとワリを食うのだということを真摯に受け止めて消費生活を送るという原点が今こそ求められている。今の世の中は情報があらゆる社会の動きの重大な要素になっている。それゆえに「情報こそ力」というスタンスによって、様々な単位の人間の集団が綱引きをしているように思う。勿論、それは善悪の二分化を基調としたものに止まらないけれども、まあ、この頃の風潮で、白黒はっきり着けてそれで事足れりというカラーが濃くなってきてはいるだろう。ファジーな(曖昧な)社会、カオスの時代と云われて久しいだけに、何かしらの規範が欲しいという心理が影響しているのかもしれないが、物事はそう簡単には片付かないものだ。それだけに情報の送り手も受け手も共に、その報道内容の質を見極めながら、自己の生活の中で有用であるのかどうか、必要なことなのかどうかなどを吟味してたしかな眼を持つことが必要なのだ。テレビは見せられるものではなく観るものなのだ。

 

語り出せばキリがないのだが、要は踊る阿呆で終わってはならないということだ。一部では、今回の事案を騒動扱いするということに批判的な見解を持っている人もいるようだが、これは一つの騒ぎにはなったのだ。それも実にバカバカしいレベルのことでだ。マスコミが煽るのもバカ、視聴者が乗せられているのもバカ、そして、物事の本質を捻じ曲げるようなことをする輩も皆バカなのだ。そういうバカな連中のために苦しめられている方々は実に気の毒至極だ。しかし、百歩譲って人は憎まずとも、罪は罪なのだ。しでかした不祥事は不祥事として厳正に処断すること、こういうことをないがしろにしてきた社会そのものが一番情けないのではないか。善悪は単純に決められないという話もしたけれど、「どう見積もってもおかしいだろ」ということに対しては、毅然とした姿勢で立ち向かうのが大人というものであると私は強く思わずにはいられないのである。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL:
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

関連リンク

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。