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お知らせ 2010年5月 [life]

2010年5月、これまでの無料ブログスペースよりも内容の拡張性の高い記事投稿サイトを新しく開設しました。I guess so...では公開することのなかったlive spot DiAngeloの情報発信も兼ねながら、今まで通り僕自身の徒然日記も書いて行きますので、どうぞよろしくお願い致します。↓

PuPuPuPress
http://pupupupumpkin.cher-ish.net/pupupupress/

尚、ここI guess so...はこのまま過去ログとして残しておきますし、気が向いたら更新するかも知れません。気まぐれご容赦ください。
ひとまず、
およそ4年余りの短い間でしたがI guess so...をご愛顧くださり、ありがとうございました。

2010年5月
boo ことDaichi Furuta

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メインストリーム「Maiden Voyage」 [story]

メインストリーム

「Maiden Voyage」


稲葉山城に入った織田信長は、この土地の名前を「岐阜」と改めました。「岐」とは中国の周王朝の起源とされる岐山からとったものと言われています。また、かつての美濃国の権威であった土岐氏から、とも言われています。土岐氏を滅ぼし因果の中に没した斎藤道三の一生を思えば、信長が彼を偲ぶような気持ちでこの文字を採用したとも考えられます。
やがて、この地「岐阜」より天下布武、つまり主君織田信長を中心とし武力を持って天下安寧の国を作るのだ、という一つの「思想」が出現しました。信長の首尾一貫した哲学でした。日本の政治の中枢は衰退の一途を辿っており、全国各地の大名は覇権争いを繰り広げていました。彼も、その覇権競争の主役の一人に躍り出たのです。

何かを成し遂げようとする人間には、常に気丈な状態、性格、躁鬱気質、ある意味でのフロー状態が見られるように、信長も例外ではなく、激しい気性を素直に表現し、時に家臣を脅えさせるような苛烈な言動を見せていました。しかしそれが織田家臣団のエネルギーとなり、信長の中にある理路整然とした哲学を理解する者は、即座に学び、察し、行動しました。行動に至る者が増えれば増えるほど組織は上手く機能し、領地の人々を順応させられるようになりました。
一度このようにイノベーションが拡大し始めた後は早い。技術革新、経済発展、生活の向上、余剰資本の投下。これこそ信長の創造であり、後世に残る偉業なのだと思いたい。現代とはやや質を異にするかも知れないけれど、いつの時代でも思想哲学は普遍的なものです。
信長は、足利義昭を擁して瞬く間に京都に上り、それまで日本を治めていた権威やシステムと対峙し、文字通り、武力を以てそれらを制圧して行きました。


さて、長近にとっても長い旅の始まりでした。信長の勢力拡大と同じくして、家臣の一人として働きに働きました。
美濃攻めの折り垣間見た予感は次第に明らかとなり、長近は北方、越前へと動き出します。
長近の手による最初の城下町、越前大野、今の福井県大野市に入るには、美濃からは標高の高い山岳地帯を越え、狭い渓流の間を抜けなけばならず、あるいは琵琶湖東岸、岐阜の北西を迂回して大野盆地へと向かいます。
立派な山城跡の残る越前大野の城下町は、広々と余裕を持った碁盤の目状に作られています。四方を豊かな田園に囲まれ、その先にはいずれの方角にも山々が連なっているのを眺められます。とても美しい景観です。ところどころ、街角にさしかかると京都大徳寺の風情を思わせるようで、またいくつもの寺院が軒を並べる通りにも繋がります。ゆったりと敷き詰められた石畳の道路の端には、かすかに音を立てて流れる水路。
長近は、山岳に阻まれたこの険しい土地の平定までにかなりの年月を要しました。日本の将来を説き、信長の思想を説き、人々の心を引き寄せて行く作業でした。信長の考えは性急なものだったけれども、長近は臆することなく、確実に町の人々の尊敬を集めて行きました。

織田家臣団の中には、信長の優れた思想や輝く威厳を追い求め、出世欲に情熱を燃やす者も多くいました。
木下藤吉郎(羽柴秀吉)、明智光秀、滝川一益、柴田勝家。長近が遠く越前大野の内政に取り組んでいる間にも、彼らは時代を駆け抜けるように、生きました。
船出でした。新しい日本の夜明け、処女航海でした。


Daichi Furuta

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「世界の人たちに私がどのように見えるか、私は知らない。
しかし、私自身にとって、私は浜辺で遊ぶ少年のように思われる。
私はときどき、なめらかな小石や、ふつうより美しい貝がらを見つけては楽しんでいる。
しかし、真理の大洋は、すべて未発見のまま私の前に横たわっている。」

Sir Isaac Newton

メインストリーム「As Times Goes By」 [story]

メインストリーム

「As Times Goes By」


金森五郎八(のちの長近)は天文十年頃には織田家嫡男吉法師(のちの信長)の養育係を務めていたことになっています。
吉法師八歳、金森五郎八、十八歳。
なぜ、美濃の名族土岐氏に起源を持つとされる金森家が早い時期から尾張の小勢力に与していたのか。歴史には必ずしもこれが正しいと言えるものはありません。時間の流れはその人それぞれの記憶であり、同じ時間を共有した人々の記憶の連鎖でしかありません。従って史実が伝えてくれるものとは、十八歳にして一人の天才の側近になり得たという後々の目からして類稀な事実を、金森長近本人や、そして周囲の親近の人々や彼の治めた城下町の民衆が語り伝え、歴史として後世に残そうと望んだのだと、僕はそのように考えています。
土岐氏の庶流が美濃を離れて近江琵琶湖に通じる街道の小さな寺町に移り住み、やがていつの頃か尾張の小勢力を頼るようになった。そこにはそれなりの事情があるのでしょうが、人が時の流れに逆らうことはできません。また辿り着く先にも‘人’が待っている。歴史は彼らによって創られて行きます。


幼い日々近江で過ごした金森五郎八は、幼少の吉法師が「つまらない」と駄々をこねる時、こっそりと吉法師を連れ出し、清州から西へ西へと馬を飛ばしました。
水辺へ行きたい。琵琶湖の向こうには京の都があると言うのに。後ろで夢中になって道中の山々を眺める吉法師にも京を見せてあげたいけれど。
幼い吉法師はどういうわけか織田家の家中に心を開かない。いったい何がこの子を縛りつけているのか、十八歳の五郎八には半分は漠然とながら分かる気もするし、あとの半分はこの子のために‘今’何をしてあげたら良いかを上手く言葉にすることが出来ず、じっと思いだけをめぐらしていました。
琵琶湖畔では、京から水運や行商によって運ばれて来る様々な商品が目につきます。尾張の町でも目にするけれど、多くは越前や、尾張を通り越して駿河へと流れて行くか、あるいは主要な関所や寺社勢力などの取り締まりによって、貴重な物資がどこに運ばれて行くのかさっぱり分からなくなってしまうので、何か良い物を探そうと思ったらまずは西へと足を延ばします。
五郎八は、道すがらの店先で「これは」と思い手にとった茶碗を吉法師に与え、この茶碗は海の向こうの宋という国があった時代に作られたものなのだと教えました。
豊かな思想や火薬、そして茶の文化などの発明が次々に生まれた宋はやがて北の遊牧民族の征服よって失われ、彼ら遊牧民の国、元は海を越えて日本にもやって来ました。もしもこの時大嵐が吹かなかったら日本はどうなっていたかわからないけれども、幸いにも今こうして宋時代の器を手にとり、幼い吉法師に話して聞かせることができる。
無邪気な吉法師と一緒に茶碗を眺めていると、仰々しく‘今は乱世なり’などと触れ回るほどのものでもないじゃないか、とも思えて来ます。
吉法師は、年上の五郎八に親しみを感じていました。
近江は吉法師にとって特別な場所になって行き、また、彼は琵琶湖の持つ不思議な永続性に気付き始めていました。
「さぁ、帰りましょうか。」
と五郎八が声をかけると、吉法師は手に取った茶碗を琵琶湖の水面のきらめきに向かって力いっぱい放り投げました。
茶碗は水面で弾け、水しぶきと静かに打ちつける湖畔の波の中に消えて行きました。


「考えてみれば、煎ずるところ人間享楽の茶碗は、いかにも狭いものではないか、いかにも早く涙であふれるではないか、無辺を求むる渇きのとまらぬあまり、一息に飲みほされるではないか。してみれば、茶碗をいくらもてはやしたとてとがめだてには及ぶまい。」
1906年、茶の湯の文化を欧米諸国に伝えるため英文で発表された‘The Book Of Tea’の中で、著者岡倉天心はこのように記しています。
アジア全体が列強の影響下にあった近代にも例えられるように、中世16世紀の日本はかつての大陸の遊牧民族ならぬ、大洋を越えてやってくるヨーロッパ人の影響の下にありました。当時多少の日本の過去や国内情勢を知り、且つ直観力の鋭い人間ならば、心の奥深くに微かなざわめきを覚えるのは容易なことだったのではないでしょうか。
「茶碗をいくらもてはやしたとてとがめだてには及ぶまい」と世俗から遠ざかることのできる茶の湯の世界は、心の安らぎを欲する中世の人々にとって貴重な隠れ蓑でもあっただろうし、言葉では表すことのできない強い意思表示にもなり、またあるいは政治的権威を示し得たのかも知れません。
混沌の世の中を結びつけて行く一本の長い糸、決して手の平につかむことのできない一本の長い糸を人々は求めていたのでしょう。
永遠に続いて行くのかと思える美しい旋律と、それに呼応する複旋律が相応しい形で自然と浮き上がって見え、瞬間的に現れる複雑な和声が、この部分にはこれしかないと思えるほどに前後の流れを決定づけている。しかし、これらも全て時間の連鎖の中でしか存在しないのです。


Daichi Furuta

http://mixi.jp/view_community.pl?id=4743432

メインストリーム「美濃へ」 [story]

メインストリーム

「美濃へ」

先日、ある若い外国人宣教師の方とお会いした際、岐阜県美濃市、関市近隣地域についていろいろなことを訊ねられました。岐阜県は南北、美濃地方と飛騨地方の二つに区分されています。明治の初めに今の美濃市が「美濃」という名前をいただいたのにはよほどの理由があるのだろう、ここがかつての歴史的な中心地だったことはすごいことです、と言われ、僕は思わず言葉をつまらせました。
今の美濃市は、確かに河川物流によって栄えた中世の商業都市としての一面を持っているけれども、決して「美濃市(美濃上有知)」=「美濃国の中心地」ではありませんでした。むしろ、現代とそれほど変わらない、一地方の静かな城下町であったと言っても良いくらいかも知れません。少なくとも今の岐阜市(県庁所在地)の合理的な地形を思えば。南に向かって広がる濃尾平野、天然の城塞である金華山、ゆったりとした景観を見せる長良川の河畔。岐阜市は、古来からの美濃国の政治経済の賑わいを想像するにやさしい土地です。
しかし、なぜ今の美濃市が「美濃」と名付けられたのでしょうか。


桶狭間で今川義元を倒しいよいよ美濃攻めに転じていた織田信長は、尾張と美濃の国境周辺での小競り合い繰り返していました。
金森五郎八はこの頃、信長の「長」の一字を賜り‘金森長近’と名乗るようになっていました。(「近」の字はきっと思い出深い近江からとったものなのでしょう。)そして信長の親衛隊である「母衣衆」の一人として転戦して行きます。
母衣衆として数えられる人物の中では他に前田利家、川尻秀隆、佐々成政など、後に名将と育つ者が目立ちますが、長近の美濃攻めにおける役目は主に美濃国の東、現在の多治見市、可児市、美濃加茂市を経由するルートを確保することでした。木曽川を越えて中山道近辺の宿場町をおさえた後、東側から美濃中心部に入るルートです。美濃攻め。信長の意図として、美濃国全域に点在する斎藤氏の与力、豪族を切り崩してしまう必要があったのだけれども、美濃は東西に広く長く伸びる濃尾平野の北部であり、また大小数多くの山、丘、河川、渓谷がまるで幾何学模様を描くように、各地の村落共同体を取り囲んでいます。その一つ一つの堅固な‘城壁’は、編成されたばかりの信長家臣団にとって試練となっていました。


現在の美濃加茂市の北西、加茂郡富加町の加治田という土地に中世の宿場町の面影がひっそりと残っています。こんなところにこんな街道があったのか、と、乗り入れた車のウインドウを開けて驚いてしまうほど、山あいの人里離れた雰囲気のある場所です。通り沿いに「松井屋」という古くからの屋号を持つ造り酒屋が今も静かな営みを続けており、そこのご主人が美濃攻めの頃の信長についての伝承を聞かせてくださいました。
信長軍は鵜沼、坂祝と攻め上り、ここ加治田に残る「加治田城」の城主であった佐藤紀伊守が味方に転じた時に初めて美濃の平定を確信したのだ、というお話でした。
当時の富加町周辺は、中濃三城と言って、加治田、関、堂洞の三つの地区が固い守りを誇っていました。その一つ、加治田の加勢によって堂洞の戦いに勝利し美濃へ入る東口ルートが完全に確保されました。この時の一連の出来事が信長の心に強く残り、お礼のため信長本人が加治田を訪れ「松井屋」に宿泊したそうです。


信長は加治田に入った時、側近として戦功を上げた長近にこんな話をしました。
「やれやれ、終わった。飛騨はどうだろうか。」
土岐氏の流れをくむ長近は、山岳地方の自然の厳しさを身をもって知っているつもりだけれども、まだわからないのだ。近江にいた頃、あの水辺、あの山の先には京都がありました。物流や政治の中心地に想いを馳せることが出来ました。しかし、今はどうなのだろう。主君信長は何を思っているのだろう。美濃でこのありさまなのだから、さらに山岳へ上るなどとは考えられない。
長近は峠を一つ越えて上有知の港町に出ることにしました。長良川に沿って目をやり、そびえる飛騨の山々の連なりを遠くに見ることが出来ます。遠くにかすむ真白な雪山の、雪どけの水がこの美しい流れを生んでいるのだろうか。神々しい流れだと、長近は思いました。幼くうつけと呼ばれた信長が、尾張からやがて美濃一国を制するまでに大きくなり、世の中も音を立てて移ろい始めている。西国では異国の人間が母国の変わった教えを説いていると聞く。人々の動きは活発さを増して行くに違いない。いったいこれからどうなって行くのだろう。わからない。
信長はすぐに「美濃」を立ち、中山道から稲葉山城へと向かいました。
長近は関の鍛冶を片っ端から帳面に整理し、矢銭と武器の算段を始めました。

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加治田の松井屋でのお話を聞いた後、自分が暮らしている場所とこんなに近いところに、織田信長本人が訪れていたということが信じられませんでした。
けれども考えてみれば、飛騨から美濃に入る古い街道が美濃市の北東の何もない山あいに存在し、途中に歌人の残した句碑が立っているのを見たことがあります。「ここからようやく美濃を望むのだ」という当時の旅人の思いが、朽ちかけた句碑を通して今に伝えられています。山を越え、峠の間から早く清流の輝きを見たいという明るい期待がこめられているようです。
「ここからようやく美濃を望む」。信長がとある宿場町で悟った気持ちもわかるような気がします。そして信長の死後、晩年の長近は美濃上有知の領主となることを自ら選択するのです。


Daichi Furuta

http://mixi.jp/view_community.pl?id=4743432


photo by Kiyoshi Komori

Infinite Longing [music]

先週、名古屋ブルーノートでトランペッターの日野皓正さんのカルテットを聴きました。
思い立って足を運んだのは、昨年秋に出会った20代のベーシスト、須川崇志くんがこの春から日野カルテットに加入することになったからです。
「こんな空間を作りたかった」と自分に強く思わせてくれた、しなやかな演奏風景が今も脳裏から離れません。今年の1月中でしたか、2月に入ってからでしたか、ニュースが友人を介して伝えられ、大変びっくりしましたがただただ嬉しく、晴れ晴れとした気持ちになったことをよく覚えています。
http://www.takashisugawa.com/top.html

Twitterを始めてからと言うものなかなか記事の更新が出来ませんが、日野カルテットの休憩なし約2時間に及ぶライブを聴きながら(観ながら)、Infinite Longingというタイトルで書いた過去の日記をもう一度振り返って載せてみようと思いました。
そんな印象を受ける演奏でした。細々と感想を述べるよりもこちらの方がよほど、と。

Infinite Longing

ある精巧かつ複雑に造られた建物の中を縦横無尽に走り回るとする。
玄関を入るとまずロビーが広がり、そして階段が四方に曲がりくねりながらずっと上の方まで延びている。
1階、2階といった明確な区別はなく、それぞれの階段を上る途中々々に設けてある大小フロアの隅にいくつもの扉があり、その奥にはいくつもの部屋が続き、さらに新しいフロアへと繋がっている。階段は奇妙な場所から奇妙な曲線を描くように取り付けられていることがあるが、不思議なくらい美しく、不快な気分を抱かせることはない。
色は床も壁も、扉や窓も階段も柱も全て白一色。住人の気配は全くなく、装飾のない鏡、白い洋式のトイレ、シンプルな形をした白いテーブル、白いベッド、白いソファーなど、まるで主張のないように見えるけれども頑ななほどの存在を示している家具に限り、ところどころ設置されている場合がある。
それらは決して主張はしない。完全、という言葉でしか例えようのない姿で構築され、設置され、そして遠くから見ても近くから見てもそれらの印象に変化はないし、まずこの建物に対して「完全」以外の何らかの意味を見出そうという気にさえならない。
複雑に入り組んだ建物の中には自分のお気に入りの場所、居心地の良い場所、窓から外の景色を眺めるのに最適な場所、吹き抜けから下を覗き込むのに最適な場所、、と、それぞれ気に入った場所が生まれて行くのだけれど、次の瞬間には既に次の部屋、次の階段、次のフロアへと足を進めている。出口を求めているのか、そうではないのか。
出口はどこかにある。確かにどこかにあるのだけれども。
繰り返すようだが、この建物には全くと言って主張がない。しかし、玄関の扉を開こうとする時、扉の前で立ち止まって上を見上げ建物の全貌を理解しようとした時の印象、扉を開けた先の目の前に広がるであろう景色を想像した時の印象は、全く正しかったと思う。

http://blog.so-net.ne.jp/i_guess_so/2006-09-07


さて、3月は程よくいろいろなスケジュールが重なって、たくさんの新しい出会いに恵まれました。
書ききれないので、小出しにして行きたいと思います。最近書けないんですよね、なぜか。。

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photo by Kiyoshi Komori

タイムラインをそのまま記事にしてみる [life]

実験。Twitterでの自分のつぶやきを中から抜粋して並べてみました。けっこう面白いと思うのは僕だけでしょうか。



今冬は例年の喘息がひどくならなかった。昨年のこの時期は完全にダウンしていたのに、今年は毎日「今日は何をしよう、明日はどうしよう」と考えることが出来てる。当たり前のようだけど、大きなこと。

Twitterで村上春樹の小説の舞台の話が飛び交っていました。やっぱり一度は都内に暮してみたいもんです。読後感とかもずいぶん違って来るんだろうな。

血糖値降下薬のメデットをインスリンと平行して使い始めて、少し病気に対する気持ちに変化が。何が何でもインスリン注射と生活のバランスで数値を保たなければいけない、という半ば抑うつ的な観念が薄れて来たと思う。また不思議なことに身体をより客観的に見られるようにもなっている。

立浪の引退試合。気づいてみたらすごい数の安打を積み上げていました。新人時代からずっとファンでした。成績が低迷していた一時期も打席に立つとやはり何か期待をしてしまう選手でした。

今日の朝生は久々に面白い話だった。一眠りした夢の後は明日の光があるのだ。

@Camembert_june その宮殿は不思議と懐かしい感じで、幼い頃からずっと変わらずそこにあったものでした。「夢の中での過去の記憶」がはっきりとそう規定していました。平安神宮、京都御所、そんな形を想像してください。で、それを眺めながら駐車場に向かって歩いたんですね。

@Camembert_june 車に戻るまで歩いていた道沿いに、行きは夕方薄明るい中、帰り道はもう夜更けだったんですが、広い神社があったんですね。平安神宮を小さくしたような。人気のない宮殿に点々と燈籠が光っていて幻想的な景色。ほろ酔い加減で車に戻ったわけです。

読み語りのKさんとRカフェのFさんとチャランゴのHさんがベロベロに酔って僕の車の中で待っていた。僕も軽いカクテル一杯飲んでたけど「大地くんよろしく~☆」って感じなのでそのまま出発。この夢が覚めれば捕まらないや、と思ったらすぐに夢から覚めた。寝過ごして、今病院の待ち合い。。

不思議な日常。先日は自分と同じ誕生日(12/2)の男子高校生、それからイブ(12/24)生まれの青年、そして昨日は陶芸教室で2/12生まれの女性と出会った。よくあることですよね。そう思っとこう。

昨夜(今朝方)、トヨタ問題の公聴会の様子、とりわけトヨタ社長の答弁の様子を途中まででしたがNHKのテレビ中継で見ることが出来ました。終始冷静な応答に努めるトヨタ社長の表情には胸が詰まる思いでした。その後のニュースでは一部要点しか映してくれない。リアルタイムで見れて良かったです。

とても気になるところです。僕らではどうすることも出来ませんが、トヨタありきの中部地方・・・分かりやすい実況感謝です。@junjikoike トヨタ社長には安全確保が最も優先度が高い事項だと確証してもらった、とのこと。チェアマンは激しかったけど、行政側はさすがにわりと冷静かな。

ありそうでなかった行動ですね(笑)ストリート風かぁ。@Camembert_june 「廊下でストリート風に下級生に読み聞かせ始めちゃう六年生もいるんですよ」との先生の報告に、思わず胸が熱くなりました。。

井上ひさし原作の「頭痛肩こり樋口一葉」でした。良かったです。演劇を見慣れていない僕にとってはえらく新鮮で、感動しました。わーっとその場の空気に浸って、会場の外に出た瞬間に我に返って、帰宅した今は身体の中に入って来たものをゆっくり整理する時間。

外出続きです。今日は岐阜市、御浪町ホールでこれから演劇を見るところ。やはり友達が出ると言うので初めて来てみました。狭いぞ。凝縮空間で2時間休憩なし。こんな小劇場があったんだ…。

もう2月も20日。どうりで外が凍結しないわけだ。オリンピックが終わる頃には春の足音が聞こえる。おやすみなさい。

帰宅すると市役所から自分宛の封筒が。「男の料理教室、ホワイトデーにケーキを作ろう!持ち物:エプロン」。去年参加したからだ…なんか笑える。。

昨日は久しぶりにグラウンドに行きました。ゆっくりジョギングを再開。帰りに昔うちが営んでいた牧場跡に寄る。今でも乳牛の鳴き声が聞こえそうで、幼い記憶の大きさに深呼吸をした。

@yamasiro_nyudou 結婚した時から使ってたものだったんですね。三菱の白いジープでスキー場に行った時のことを思い出しました。(^_^)

@yamasiro_nyudou あれですか?おまあ殿がタンクから直接灯油を注ごうとした。。壊れちゃったんだ(笑)

一昨日買ってあったブリの切り落としとホウレンソウの残りで一人パスタ。

血糖値が高く推移しているからと言ってインスリン量を増やせば、当然体重が増える結果を招く。メデットのように別の回路で血糖を下げられるような薬は確かに有用だと思う。ただ副作用と臓器への影響について知って置かないと、不安は否めない。

教育。本当に必要なもの、過去の時代に必要だったもの、今後必要に迫られて行くものの境界線を誰が定めるのか。私学や個々人の力で形成して行くしかないのだろうか。http://agora-web.jp/archives/915751.html

地元の同級生が帰省して遊びに来てました。「かぼちゃワイン」が懐かしいと言い出すので、YouTubeで探したらけっこう出ていました。昔って、けっこう思い切ったアニメ多かったですよね。鼻をつまんで水を飲むのと同じくらい謎めいている。おやすみなさい。

@utapime 花つまんでお茶をぐいぐいっと飲んだら治った・・・。ホントに治った・・・。

とまった?かも・・・なんでこんなことで治るんだ???

やってみまっす。あーとまらん(T_T。。。@utapime 鼻つまんで水飲むといいですよ!

しゃっくりがとまらないなう

吉田松陰のことを初めて知ったのは、中学の時の美術の先生が松陰の肖像画を見せながら熱く語ってくれた時だったと思う。美術の授業で、どういう流れでそんな話になったのかは覚えていないけど、とにかく「こんな日本人がいたんだ。」という力説だけははっきりとその時に聞いた。いい先生でした。

吉田松陰が黒船まで渡ろうとした下田港に四年程前行ったことがあります。閑静な町ときれいな海、こじんまりとした港のたたずまいに、歴史上の物語とのギャップを感じました。たった一人の人間の思いがこんなに重く後世に残るなんて、不思議です。

ゆっくり風呂につかろう

東京から帰宅。昨夜は初めて新宿ピットインに行きました。思っていたよりもアットホームな雰囲気で、ちょっと驚きました。昔からやっぱり憧れのライブハウスでした。長く会いたかった知人とも、都内の友人とも顔を合わせることが出来て、たった一泊だけど貴重な時間になりました。

およそ10年余りの間に世の中で何が起きているのかを、客観的に書かれている記事に当たりました。ITとセルフサービスと技術的選民性。http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20100202#p1

NさんとHさんも一緒です。チケットいかが?(笑)@Camembert_june チケットいかが?って言おうと思ってたけど、出演者なんだ(^^;

来月、美濃市文化会館で開かれるフォルクローレグループ「ティンクナ」さんのコンサートで一曲だけ共演させてもらえることになり、その打ち合わせをして来ました。ボリビア民謡がかなりポピュラーなものなんだと知りました。行きたい国がどんどん増える。

大きなものを自らの目で見、小さく見えるものに絶望する。その狭間で双方の意味を問い正し、自分の存在に目覚めて行く。今日の龍馬伝は感動的でした。すごいスピード感。待っていてくれない。

国際交流会だけあって、飛び入りでペルー人女性の方が一緒に歌ってくれました。他にサンポーニャを吹いて見せてくれたり、興味津々。聴くといいよと言うボリビアのバンド名とか、教えてもらいました。ボリビアかぁ

今日は加茂郡富加町の国際交流会に参加し、アンデス民謡をやっているグループで少し演奏をする予定です。昨年はここで多くの中国、中央アジア地域からの留学生の方々と出会いました。今年も良い時間を過ごしたいと思います。

病院より。目の合併症の有無を検査するために瞳孔を開く目薬をさしました。まぶしいまぶしい(+_+)

@utapime 何がなんだかサッポロワカメラーメン。


https://twitter.com/gifu_pupupu

ショーペンハウアーによる惑星の引用 [books,words]

ショーペンハウアーの印象的な句を書いておきたいと思います。


十歳では水星が支配する。
その年代の子どもは水星のようにすばやく軽やかに、もっともせまい環のなかで動く。
この子はつまらないことで気分を変える。
しかし狡猾さと弁論の神の支配のもとにあって、たやすく多くのことを学ぶ。
二十歳とともに金星の支配がはじまる。
恋と女がこの年配の人をわがものにする。

三十歳になると火星が勢力を握る。
この年配の人は、いまや熱情的で強力であり、
勇敢でけんか早く、不敵である。
四十歳では四つの小惑星が支配する。
この年配の人の生はしたがって大幅に広がる。
こうした人はセレスのおかげで役に立つものに奉仕する。
またヴェスタのためにおのれ自身のいろりを持つ。
こうした人はパラスによって自分が知るべきことを学ぶ。
そしてユノとして、家の女主人、つまり妻が支配する。

人生五十歳になると木星が支配する。
この年になった人は、大多数の人びとより長く生きながらえたことになる。
彼らは現在活動中の世代の人びとよりもすぐれていると思っている。
彼らはまだおのれの力を楽しんでおり、知識、経験も豊かである。
彼らは、(それぞれの個性やおかれた状況にしたがって)おのれをとりまくすべてのものに対して権威を持っている。
したがって彼らの領域内でリーダー、支配者になるには彼らはいまや最適の人物となる。

かくて木星は絶頂に達する。
そして木星とともに五十歳の人は頂点にある。
だが、それからあと六十歳には土星が来る。
そして土星とともに、鉛のような重さ、緩慢さ、しつっこさが現われる。

最後に天王星が来る。
そうなると、よく言われているように人は天にのぼる。
海王星(残念なことに頭の悪い者がこんな名をつけた)については、計算に入れないことにする。
なぜなら、私がこれをほんとうの名前、エロスと呼ぶことが許されないからである。
そうでなければ、私は、いかに終わりが初めと結びつくかということ、
つまり、いかにエロスは死とひそかに結びついており、
そのためにエジプト人のオルクスあるいはアメンテス(プルタコスの「イシスとオシリス」による)が、
たんに取るものばかりでなく与えるものであり、死が偉大なる生の貯水池であるということを示したであろう。
したがって、こうしたことからして、オルクスからすべてが出現する。
そしていま生きている者はすべてオルクスのもとにすでにいたことがあるのだ。
もしわれわれがこうしたことが起こったもととなる手品使いの手口を把握することさえできれば、
すべてのことが明らかとなるだろう。//

Arthur Schopenhauer 1788-1860

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2010年、近況 [life]

遅くなってしまいましたが、新年明けましておめでとうございます。

昨年末からここ岐阜県美濃地方にも大雪が続きました。大晦日の深夜は新雪の中を地元の寺まで除夜の鐘をつきに歩きました。また、正月明けには消防団の出初式があり、今春から自分にも部の会計役が回って来ることになりました。地元での公的な仕事というのも、いつかは何かしら持ち回りで受けることになると思うのですが、そういった自然体の変わらぬ慣習、慣例が激動期の社会においても機能しているのは、とても心強いことなのではないかと感じています。

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1月中旬には、自分が子供の頃に通った小学校でNPO支援事業の一環での読み語りの企画が催され、小学校一年生の歌う主題歌の伴奏をして来ました。
前日の打ち合わせから当日のまる一日、懐かしい小学校の校舎の中に居られることが嬉しく、さらに降りつもった雪のおかげで、外の明るい景色に照らされた校舎の中の空気がかつての雪の日の記憶を鮮明に思い出させてくれました。また、指導に来られていた昔懐かしい教員の方々、来賓で来られていた小学校五、六年生の時の担任の先生、そして現在講師として勤めてみえる幼馴なじみの同級生、と、ノスタルジックな感情を呼び起こすには十分過ぎ、一年生の子供たちの後ろで弾くことになった体育館のピアノは、自分が校歌の伴奏をしていた頃そのままでした。昔と同じように職員室でピアノの鍵を借り、ふたを開け、触れる鍵盤はやっぱり少しひんやり。

リハーサルが終わったお昼休み、一人校舎の中を歩いてみました。
生徒が雪の運動場にかけ出して行く玄関の下駄箱と、雪の光に照らされる廊下。二階にある図書館。少年探偵団、怪人二十面相、ズッコケ三人組、晴れときどきぶた。今も本棚に並んでいました。「だんきゅう」という名前で綴じられた生徒の作文集も、昭和50年代のものからずっと棚に並んでいます。僕は野球の試合のこと、音楽コンクールのこと、つたない言葉で一生懸命書いた記憶があります。小さな頭でうんと絞り出すささやかなドラマ達。当時は文集なんて書くのはいやだなぁと思っていたけど、今になって何十年も本棚に並んでいるのを見ると、なかなかこれで価値のあるものに見えてくる。
階段を下りて給食室の前を通ると、当時の給食のおばさんが‘残った食パンの耳’をストーブの上で焼いてくれていたのを思い出しました。
寒い雪の日は、お昼休みと言っても運動場に出なければいけないというわけではない。給食室のストーブのパンの焦げる美味しそうな香りの周りに集まっていたって良かった。長閑な時代だったと思います。

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昨日と今日は、つかの間の暖かい日を過ごしました。降雪と凍結の繰り返しで残っていた屋根の雪が、一度に解けてしたたり落ちていました。ざあざあと音がするのは雪解けの音。今年も良い一年でありますように。

雪の年越し [life]

大晦日、午後から雪が降りました。
年始を見越して灯油を買う車の列、食材を買う人だかりがいろいろな場所で見られます。

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年末は例年のように地区の消防団による夜警活動がありました。
現在の団員は、昔小学生の頃に毎日一緒に並んで登校したり、子ども会の行事に一緒に参加したり、スポーツ少年団や習字教室でも同じ時間を過ごした、同年代の人達がほとんどです。夜警で集まって詰め所で過ごす時間は、20年の年月を経た今もそれぞれがどこかに昔の面影を辿っているのでしょうか、和気藹々とした雰囲気がとても心地良く、性格の大人しい方などもそれほど多くの言葉がなくとも不思議と打ち解けているように感じられます。

窓の外の様子を眺めながら。
僕は紅白歌合戦よりも、こうしていろいろと想いを巡らしながら年を越す方が何となく好きです。
今年もたくさんの窓を開け、あるいは閉ざし、あるいは発見することが出来ました。
出会って行く全ての人に感謝。
良いお年を。

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ともだちからともだちへ [human]

先週末から二泊三日、仙台に行って来ました。糖尿病のメカニズムの研究を長く続けている中学以来の友人Hが昨年結婚し、新生活を始めてちょうど1年余りが過ぎたところ。12月、仙台市内の定禅寺通りを中心に行われるイルミネーションイベント「光のページェント」の点灯式に合わせて、Hと彼の奥さんTちゃんが誘ってくれたのです。

ああ、僕も誰かと結婚する日が来るのかなぁ、とぼんやり考えながら、いつものようにやっぱり「こだま」でのんびり東京へと向かい、東北新幹線「やまびこ」を乗り継いで仙台駅に到着。北国らしい冷え込みはまだなく、とても過ごしやすい三日間でした。そして、光のページェントの点灯の瞬間は思わずドキっとしてしまうような胸の高鳴りを覚えました。合計1.3kmの輝くトンネルは、「杜の都」の名に相応しい、透明感のある素晴らしい景観でした。

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http://www.sendaihikape.jp/

二日目には電車で松島海岸へ。前回の旅行の時に閉門時間を過ぎて入れなかった、奥州伊達家の菩提寺である瑞巌寺(ずいがんじ)の境内をゆっくり歩くことが出来ました。ただ、今度は本堂が400年で初めての大修理の真最中でした。大修理はおよそ10年の間続くそうです。隣に佇む円通院でありがたい解説を聞きながらも、途方もないスケールになかなか実感を伴うことなく。
円通院内にある三慧殿(さんけいでん)は、桃山時代にローマに渡り、多くの西洋文化を日本に持ち帰った支倉常長への想いが込められているものでした。現地のガイドさんの朗々とした解説は、感動なくして聞くことが出来ません。二日目はあいにくの曇り空でしたが、良い時間でした。


友人Hの奥さんTちゃんは、僕とは大学時代に知り合ったピアノ仲間であり、二十代のある時期には名古屋市内の同じ先生のレッスンを受けていた、同志のような存在でもあります。また、僕と同じく(種類は違いますが)少々厄介な持病と向き合って生活している、あえて例えるならば患者仲間でもありますが、頼もしい旦那さんに支えられて元気にがんばっているTちゃんの表情を見ていると、自分も少しずつでも前に進んで行かなきゃと励まされます。
研究者のHにも、いつも期待をしてばかりではプレッシャーがかかるだろうし、そろそろ気持ちの上で自立をして、しっかりと前を向いて病気と向き合って行きたいな、と。
今年も間もなく年の瀬です。

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http://www5.ocn.ne.jp/~i-net/dm1setumei.htm  1型糖尿病とは
http://www.dm-net.co.jp/ichigata/  糖尿病ネットワーク・1型に関するページ
http://jp.youtube.com/watch?v=0GK-T9Kn3HQ  youtube 1型糖尿病について
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