ほかでもあり得たわたし [読書]
浅野智彦『自己への物語論的接近』のなかで引用されていた一文。
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冒頭は言語の危険地帯です。
語り始めるということは、むずかしい行為なのです。
それは沈黙からの脱出です。
実際、あそこではなく、ここから始めなければならないという理由はありません。
―ロラン・バルト『記号学の冒険』
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浅野さんの文章は以下のように続く。
―ある物語を『あそこ』からではなく『ここ』から語り始めなければならない理由は何もない。
もし『ここ』ではなく『あそこ』から語り始めていたならば、今語られているのとはまったく別の物語が繰り広げられていたかもしれない。
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書き出しは難しい。
書き進めているうちに書きたいはずだったことから遠ざかってしまったり、余計なことまで書いてしまったり。
書き出しがその後の文章を左右する。
書き出しをうまく書かないと、書きたいことも書けなくなる。
ということはむしろ、書き出しにこそ書きたいことが詰まっているはずなのでは?
「ここ」から語り始めなければならない理由など何もないならば、かえって書き出した事実そのものが逆に書き始めた理由になるのではないかしら?
書くこと・語ることは、あまたに解釈できる出来事からある特定の側面を選び出し、配列すること。
その選択と配列には、恣意性が介在し、何らかの理由がある。
ほかでもあり得たわたしが、いまこのわたしである理由。
ほかでもあり得たわたしが、いまこのわたしであることを納得させ、正当化させる方法。
あの時、なぜあの道を選びとったのか。
その時抱いていた理由。
いま抱く理由。
この二つが異なると、一貫性がない意思の持ち主のように思われるけど、意思の一貫性よりわたし自身の一貫性の方を重要視していいと思う。
先の心配をする前にやりたいことをやればいいと思う。
「知識」という権威 [読書]
それにしても、私は「知識」という権威に極めて弱い。
最近つくづく思う。
自分で考える力を養わなくてはならないが、本当に本当に私は考えることを面倒臭がる。
考えるより先に調べてしまいがちだ。
知識に対する批判をすることを怠ってしまう。
あかんなぁ。。
そんな折に見つけたのが、ピーター・バーグ『知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか』(新曜社)。
→http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E8%AD%98%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%8F%B2%E2%80%95%E7%9F%A5%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E5%95%86%E5%93%81%E5%8C%96%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B-%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC-%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AF/dp/4788509105
確か、これも新聞で見かけたんだったと思う。
もちろん、まだ読んでない。
いかにして、情報が商品として流通するようになったかが分析されているらしい。
昨今、インテリジェンスなどという呼び方をして情報の地位がまた一段上がったように思えるが、私からしたら、まず「知識より知恵」、情報より思考力が必要だ。
情報をうまく調理できるようにならないことには、そもそも何が情報かすらも判断できないだろう。
海のものとも山のものともつきません。
ということで、ヒマになったら読ーもうっと。
未来"読書"予想図 [読書]
読書カテゴリーに入れておきながら、本投稿は書評でも本の感想でも何でもない。
タイトルにある通り、これから卒業までに読みたい本を書き連ねておこうと思ったまで。
なぜこんなことを思い立ったかというと、いま、猛烈に腰が重いんです、勉強に対して。
その証左として、私は部屋の掃除を始めてしまった。
片っ端からモノを捨てたくなる衝動に駆られる。
これ、行き詰まった時の私。
もう3年近く手を触れていない、倉庫と化した棚の中身を、もはや一生用いる事はないと腹をくくり、捨てにかかったのが30分前。
見つけたのが、大学受験時の勉強の痕跡。
私は教科書やらプリントやら、勉強道具を捨てることができない人間だった。
もしかしたらいつか使うかも!(否。二度と使うことはない)
この図説はとてもわかりやすい!(わかりやすいのは認めるが、やはり使わない)
などなど、なまじ有益であるが故になかなか捨てられなかった。
しかしながら、実際何年も手すら触れない状態が続くと、ようやく勉強道具が邪魔に感じられてくる。
確かにそれは自然な感覚だろう。
それらは勉強に用いることで初めて勉強道具の機能を果たす。
ただ棚に飾っているだけでは、ゴミと同列の位置づけに甘んじるのも致し方ない。
この場合、ゴミも勉強道具も邪魔で無駄なものという点で同じなのだ。
さて、こうして30分前の私は大学受験時の勉強の痕跡、すなわちゴミを発見した。
と言っても、大学受験の勉強道具は段階を踏みながら徐々に捨ててはいた。
思い入れのない教科、すなわち英語や漢文などから、火曜の朝、すなわち資源ゴミの回収日に家から追い出した。
一方、猛烈に思い入れのあった科目、すなわち日本史は捨てがたかった。
正直、受験勉強といったら日本史以外やった記憶がないくらい日本史を勉強した。
というか、それくらいの勢いじゃないと真剣と書いてマジでやばかった。
高3の冬休みに塾の先生の真剣と書いてマジに心配されたレベルであった。
いやぁ、今だから笑える話。
しかしながら、かくの如き強い思い入れを有していた日本史ですら、だいぶ前にテキストやらノートやらは捨てていた。
本当に、絶対に、命を懸けてでも、二度とこのテキストを開くことはないと自信があったからだ。
今更、日本史を知りたくなって大学受験の勉強道具に手をつける意味がわからない。
別にネットやら書籍やらで調べればいい話だ。
なので、思い入れの強かった教科の割りに、あっさりとお陀仏となったのだった。
では、今日の私が見つけたのは、どの教科の勉強道具か。
すでに英語、漢文、日本史を捨てたことは述べた。
私立文系の私に残された教科…それは…、
現代文。
最高に面白かった現代文。
(ちなみに古文は本投稿には出てこないけど、これもとうの昔に捨てたわ)
未知の思考、未知の世界との出会いが現代文だった。
これは、本当に本当に捨てがたい。
なぜなら、調べたくて調べられる内容ではないからだ。
私は苦悶した。
が、決断した。
捨てることを決断した。
理由はやはり、もはや読み返す機会はほとんどないであろう、ということだ。
しかしながら、現代文ときれいさっぱり決別するなんて乱暴なこと…私にはできないよ。
現代文のエッセンスを、残して…おきたいな。
ということで、現代文の問題になった文章の元ネタを、ここに書き連ねておく。
ここに至るまでに、だいぶ紙幅を費やした。
ついでに言うならば、時間と労力も費やした。
では、やっとのことで、以下、卒業までに読みたい文献一覧。
藤田省三『新品文化』
姫野翠『芸能の人類学』
三木清『構想力の論理』
柳宗悦『茶道論集』
蓮實重彦『夏目漱石論』
粟田勇『象徴と超現実』
山本明『シンボルとしての広告、「価値転轍機」復版』他
安部公房『砂漠の思想』
外山滋比古『省略の文学』
高取正男『民俗のこころ』
小森陽一『<読む>ことへの夢想』
市村弘正『小さなものの諸形態』
市川浩『現代芸術の地平』
野家啓一『物語の哲学』
市村弘正『「名づけ」の精神史』
村上陽一郎『生と死への眼差し』
武満徹『音楽の余白から』
福田恒存『日本を思ふ』
唐木順三『日本の心』
西谷修『問われる「身体」の生命』
鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』
内山節『時間についての十二章』
吉本隆明『画像論』
多木浩二・内田隆三『零の修辞学 歴史の現在』
中沢新一『森のバロック』
酒井直樹『死産される日本語・日本人』
関根政美『他文化主義社会の到来』
リービ英雄『ぼくの日本語遍歴』
鎌田東二『日本人の深層的な生死観』
田中純『利休の<暗い部屋>―草庵茶室の空間』
坂本多加雄の文章
多木浩二『都市の政治学』
大澤真幸『自由の牢獄』
今村仁司『近代の思想構造』
中村雄二郎『術語集Ⅱ』
以上。
友達のmixi日記で気付かされたけど、卒業まであと5ヶ月らしい。
週に2冊読むペースでも40冊しか読めない計算だ。
これはまずい。
上記のリストで36冊。
そして間違いなく上記の本を週2冊読むのはきっつい。
いや、何が一番きついかというと、時間的な問題よりも内容理解の問題だ。
なんか、書きながら、あぁ、たぶん、間違いなく理解できないよ~この本たち~。って感情がむくむく湧いてきてさ。
というか、こういう類の本は、木の根っこのように、巻末の参考文献リストから読書の根を張るべきであって、ぽいぽい読んでも理解できないって。
てか、真摯に取り組んでもきついよ。
まぁ、とりあえず、未来"読書"予想図はこんな感じで。
さて、現在に帰ってまいりますか…そつろーん。
美しい国へ [読書]
いまさら読んでます。
安部前首相の『美しい国へ』。
この本って一体何なんだろう?
安部さんのエッセイって位置づけでいいのかなぁ。
政策や政治家としての立ち位置について書いてあるんだけど、別に何ら科学的・論理的なことは書かれておらず、ただただ彼の考える政策や政治家としての立ち位置がつらつら書かれているだけ。
内容的には突っ込みどころ満載だけど、これはエッセイであって学術的な研究ではないから、まぁいいや。
ただ、新書でこういう本は作らないで欲しいと思う。
発表者はどうまとめるかしら?
この本からどんな論点が導き出せるのかしら?
二つの祖国 [読書]
自分は一体何者なのか?
日本人なのか?アメリカ人なのか?
今、第二次世界大戦下の日系アメリカ人2世の苦悩を描く小説、『二つの祖国』を読んでいる。
作者の山崎豊子は、元新聞記者なだけあって、綿密な取材を基に戦時下の現実を剥き出しの状態で生々しく描写する。
過度に説明的ともとれる叙述はストーリーを強化するが、それゆえに読んでいる私は文中に連なる言葉以上の読解ができない。
平たく言うと、行間が読めないのだ。
登場人物の心の機微もご丁寧に説明されている。
作中に登場する日系アメリカ人たちはそれぞれ、日本人かアメリカ人か、自らのアイデンティティを選択する。
選択の基準は、信念の場合もあるし、(言い方は悪いが)命惜しさの場合もある。
しかし主人公は、父祖の国日本と、育ちの国アメリカの両方のアイデンティティを認め、それを貫こうとする。
父祖の国日本を裏切ることはできないが、アメリカ市民として忠誠を尽くす。
私は主人公の揺るぎなさに感服する。
だがその一方で、あまりに英雄的につくり上げられたその人間像を追体験することもできない。
しかしながら物語が進むにつれ、事態はいよいよ凄惨なものとなり、主人公はますます日本とアメリカの間で苦しめられていく。
二人いる弟の一人はアメリカ軍、もう一人は日本軍として相対させるあたり、ちょっとそれはやりすぎではないですか、山崎さん!と言いたくなる。
そう、山崎豊子の小説はやり過ぎなのだ。
そのことが小説を小説以上のものにさせるのを妨げている。
一度読んだら、ストーリーを知ったら、それでお腹一杯の作品。
私の読みが甘いだけなんだろうけれど、そういう意味で山崎作品は再読したいと思わない。
でも、本当によく物語が組み立てられているから、読了はしたい。
時事的な問題から、人間精神に関わる問題まで、正面切って取り組んではいるのだけれど、どうも私には合わないらしい。
しかしながら、作中の主人公は相当かっこいい。
その主人公が学生時代に懇意にしてもらっていた男(島木)のセリフがとーてもかっこよかったので、ここに引用する。
―…日米間の状勢が悪化して来ると、アメリカ国籍を持ちながら、日本に対する祖国意識が深まる心の葛藤を打ち明けた賢治(主人公)に、島木は暫し、沈黙したあと、「不幸にして将来、日米が開戦するようなことがあれば、君は日系アメリカ人として米国のために尽くすことが至当だ」と云った。賢治が解しかねかけていると、「朱子の教えに『進退命あり、去就義あり』とある、人間の進退は、その成否も難易も、すべて運命と見られよう、しかし、その運命を自己の意志によって打開して行く、即ち、去就を義に叶わしめるところに、人間の存在意義がある、義の中に命ありだ、ここに二世たる君の行くべき道が示されている、解ったか、賢治君」…。
自由 [読書]
自由とは、少し硬い言葉を使えば「価値の内面化」です。
自分たちの行動が社会に何をもたらすか、できるだけ客観的に自らを省みて、必要があれば責任を取るということが大事です。
世間で流行していることや周囲の雰囲気とは関係なく、自分がやりたい、正しいと思ったことを貫く。
そうした自由じたいの価値が尊いのです。
風当たりが強いこともあるでしょうが、やろうとすればできます。
勇気と意欲の問題です。
―加藤周一『論座』2006年1月より
多和田葉子的町田康。 [読書]
気付くのが遅すぎた。
面白すぎる。町田康。
『実録・外道の条件』を呼んでいると、電車でも一人でくすくす笑ってしまう。
心中、どどーん、どどっどどっど、どーどどん。どひゅーん。って感じに成り果てる。
彼がエピソードを語る際に登場人物につける仮名が極めて多和田葉子的だったので、以下に記す。
まず、彼が紐育(ニューヨーク)に行く際に訪れる、現地在住の彼の知人の仮名とその由来。
「(…略…)私(町田康)は紐育在住のある人物に連絡を取った。仮に名前を付けよう。なんでもいい。まああんまり妙な名前にしても悪いから、島田純夫って名前にしようかと思ったけれども、それじゃ普通すぎて面白くないので、万旗長太郎という名前にしよう。なぜそういう名前にしたかというと、彼はマンハッタン島に長く住んでいるからで、つまりマンハッタン長い太郎、ってそんな名前だと思っていただければ幸甚です。敬具。といって名前からも知れると思うが彼は純粋の日本人で仕事の都合で紐育に住んでいるだけで、心の清い人である。そういう意味でも長太郎と名付けた。云々」
長い。
無断転載すみませんでした。
日本の民主主義 [読書]
冷戦終結後のポスト共産主義世界の実情を書いたエッセイ『カフェ・ヨーロッパ』。
共産主義が身体化されきっている世界では、政治権力からの抑圧から解放されても、人々は自由が何かがわからない。
どうすることが自由に振舞うことかがわからない。
想像を絶する世界がそこに記述されていた。
「共産主義が育てるのは、群衆としての人間で、個人や市民ではない。市民は、自分の権利を知っていて、そのために闘うことができる。そういう市民は民主主義の中だけに存在する」
さて、日本は民主主義国だ。
制度上は。
実態はどうだろう。
母数が違うのだから、安易に他国と比較はできないだろうし、そもそも私自身、民主主義とは何かなんてはっきりわからないから、下手なことは言えないけど。
でも、戦後ほぼずっと政権交代のない国なんておかしい。
さて、7月は参院選。
私にとって初めての国政選挙。
それまでにもうちょっと勉強する。
そんで、選挙という形で声を上げる。
追記:「共産主義のもとで成長するということは、永遠に現在を生きるということだ」
夕凪の街 [読書]
テレビで戦争を見たことがある。
今まさに地球のどこかで起こっている戦争を。
戦争のごくごく一部を。
原爆は見たことがない。
古い映像で見たきりだ。
戦争も原爆も、今でも被害者が絶えない。
「夕凪」とは、夕方に海風が陸風に変わるときに無風状態になることを指すらしい。
ヒロシマではよく夕凪が起こる。
原爆が落ちた日から、ヒロシマは夕凪だった。
8月6日の8:15で止まってしまっていた。
それでもみんなの時計は進み、私は戦争も原爆も見たことがない。
それには名前がついていないから。
名前のないものは存在しない。
でも名前がついたら終わってしまうものもある。
だから私はずっと見ることができない。
ただ、存在を想像するので精一杯。
私の想像を掻き立てる『夕凪の街』。
原爆のごくごく一部。
私はこの感情をどう処理すれば良いのか。






