再来 [読書]
再びきました、谷川先生。
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「願い」
いっしょにふるえて下さい
私が熱でふるえているとき
私の熱を数字に変えたりしないで
私の汗びっしょりの肌に
あなたのひんやりと乾いた肌を下さい
分かろうとしないで下さい
私がうわごとを言いつづけるとき
意味なんか探さないで
夜っぴいて私のそばにいて下さい
たとえ私があなたを突きとばしても
私の痛みは私だけのもの
あなたにわけてあげることはできません
全世界が一本の鋭い錐でしかないとき
せめて目をつむり耐えて下さい
あなたも私の敵であるということに
あなたをまるごと私に下さい
頭だけではいやです心だけでも
あなたの背中に私を負って
手さぐりでさまよってほしいのです
よみのくにの泉のほとりを
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弱モードの心に染みるわ。
カフカ『変身』 [読書]
何とはなしに連なるストーリー展開を追っていたら、読了しました、という感じ。
登場人物の口を借りたり、状況の描写の仕方によってメッセージを発信はしていない。
確かに、解説などで書いてある通り、淡々とストーリーが展開されている。
そこからメッセージを汲み取ることはできるだろうけれど、我ながら陳腐すぎていやになる。
メッセージを汲み取るべきポイント、すなわち、突っ込みどころ(“敢えて”通常の常識的な感覚からズラしたストーリーの“敢えて”そうした理由を考えたい)はある。
最大の突っ込みどころは、主人公が虫になってしまった、こと。
その姿を嫌悪しつつも、受容する家族(違和感を抱えながらも共に暮らし続ける)。
陳腐に解釈すると、、、世の中の不条理とその発生可能性が日常中にあふれていること。
また、不条理が生じていても、それが何となく受容され、その中で健気に生きること(また、それ自体のさらなる不条理さ)。
私としては、このように本作の意味づけをしたけれども、先より陳腐・陳腐と連呼しているとおり、この意味付けに何の意味やら意義やらを見出せるかというと、言葉に詰まる。
そういう意味で、特段感動もせず、感想も湧きあがらない、という読後感想。
六月のうた [読書]
あんなに哀しかったあの日
あの日も私は私だったのに
あんなに苦しかったあの日
あの日も空は青かったのに
あんなにうつろだったあの日
人気のない公園で
いつまでもぶらんこに座っていたあの日
アルバムにないあの日
日記のつけられなかったあの日
いつかはあんなに忘れたかったのに
今は忘れてしまうことが怖しい――
あの日私は二十歳だった
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また戻ってきた谷川俊太郎。
しみこむな~。
終の住処 [読書]
良質の表現であればあるほど、私の理解は表現しているもの自体に束縛されず、むしろ私自身が浮かび上がってくる。
私はどう理解するのか。
意味づけるのか。
(余談ですが、これがいわゆるsignifiantとsignifieの問題(ソシュール)なんですね。いま初めて実感を持って理解できました)
今年の芥川賞を受賞した磯崎憲一郎の『終の住処』を読んだとき、人の一生って空しくて儚くて、根こそぎ希望を奪われた気持ちになった。
不可解に思えたり、狂っているように見える現実は、実は定められていて、見透かされていて、自分はただ所与の現実を漂うばかりなのかな。
意思があるような、ないような、漂う日々。
漂いながらも最後に戻ってくる場所としての家庭・家。
読了後にむなしくなってしまったのは、私の見方・私の姿勢がそうだから。
不確かさな現実だからこそ、確かなものを人は求める。
求めることが確かさを担保する。
とすると、この本は単にむなしくさせるだけでなく、ある種の開き直りというか、楽観を与えてくれるかもしれない。
肩の力を抜いて、ふっと息を吐いてみて。
そしたら少し世界が違って見えるかも。
『燃えつきた地図』 [読書]
昭和42年の作品。
安部公房の小説はあんまり得意じゃないんだけど、好き。
私の稚拙な読解力では間接的で比喩にまみれた文章だから、読みづらく理解しづらい。
けど、込められたメッセージが猛烈に好き。
人間存在の曖昧さというか不安さを生々しく見せつけてくる。
この小説の主人公は、突如行方をくらました夫を捜索するよう依頼された興信所の男。
依頼人の妻といい、行方不明中の夫の部下といい、登場人物はいま一つ輪郭がはっきりしない。
とにかく彼らの発言はいい加減。
すぐさま覆る。
何が真実なのか。
彼らは一体誰なのか。
捜索を進めれば進めるほど真実から遠ざかる感じ。
特に印象に残った描写が二つある。
一つ目は依頼人が住んでいる団地(と依頼人自身)の描写。
主人公は一瞬で特徴をつかむのが得意な興信所の男。
しかし、彼をしてこの団地の特徴がなかなか記憶にとどまらない。
何度か来たことのある団地をどうしても思い出すことができない。
「けっきょく、この見馴れた感覚も、じつは真の記憶ではなく、いかにもそれらしくよそおわれた、偽の既知感にすぎなかったとすると……いまぼくが帰宅の途中だという、この判断だって、おなじく既知感を合理化するための、口実にすぎなかったことになり、そうなれば、自分自身でさえ、もはや自分とは呼べない、疑わしいものになってしまうのだ。(365頁)」
これまでの展開で男は何度も真実をはぐらかされてきた。
先にも述べたが、捜索を進めれば進めるほど真実から遠ざかり、むしろ真実の不可能さばかりが強調されていく。
この流れが個人的にとても気持ちいい。
二つ目に印象に残っているのが、田代君という被捜索者の部下の発言。
雑踏を行き交う人々を前に、
「ほら、あんなに沢山の人間が、たえまなく何処かに向かって、歩いて行くでしょう……みんな、それぞれ、何かしら目的を持っているんだ……ものすごい数の目的ですよね……(中略)もしも自分に目的がなくなって、他人が歩くのを見ているだけの立場におかれたりしたら、どうするつもりなんだ……そう思っただけで、足元がすくんでしまう……なんだか、すごく侘しい、悲しいような気持になって……そして、どんなつまらない目的のためでもいい、とにかく歩いていられるのは幸福なんだってことを、しみじみ感じちゃうんだな……(293-294頁)」
長い。
けど、このセリフもとても気持ちいい。
人間って目的の塊なんだ。
人間って目的を具体的に存在させておくためのハコにすぎないんだ。
だから目的のない人間は人間としての価値を持たない。
目的を強いられる人間。
目的に押しつぶされる人間。
そんな人間の不安エッセンスが見事なまでに凝縮されているセリフ。
安部公房は本当に読みづらいけど、時たま訪れる快感を知ってしまったから、時たま猛烈に読みたくなる。
そして心がマイナスの方向へ躍るのを楽しむ。
薬指の標本 [読書]
小川洋子の『薬指の標本』を読んだ。
過剰に装飾的な表現なわけでもなく、説明的な描写なわけでもなく、するする入ってくる文章は読んでいて心地よかった。
先日読んだ乙一の『ZOO』ほどではないが、収められた二本の作品はともにどこかおとぎ話のようだった。
日常のなかでいるようで、どこか宙に浮いたような。
それでいて読者である現実のわたしを揺さぶるメッセージを感じる物語だった。
「薬指の標本」と「六角形の小部屋」はともに、ある過去の出来事や思いに絡め取られた人々を解放するお話。
しかしながら前者では、人々は自身を絡め取るものが何かはなからわかっていて、その上でそれらを標本にしてもらう。
一方、後者では、小部屋のなかで語ることで自分を捕らえる未知なる何かが明らかになっていく。
自身を絡め取るものが何かを、知っているか。知らないか。
これは大きな違いだ。
そもそも、時の流れに抗って、ある人を過去に引き留めるような出来事というのは概して暴力的な出来事だといえよう。
自分では理解できない出来事であり、対象化できない出来事、すなわち受け止めきれないほど暴力的な出来事であるがゆえに、人は過去に縛り付けられる。
このような出来事を受け入れるとき、人はその暴力に耐えねばならない。
「薬指の標本」の主人公は、標本技術士である弟子丸氏からこれまでで最もつらい出来事、悲しい出来事、痛い出来事、恥ずかしい出来事を言うように求められる。
しかし彼女は答えられない。
このやりとりが、わたしにはひどく暴力的に思われた。
弟子丸氏のやっていることは過去に縛り付けられている人を解放するかもしれないけれど、それ以前の問題として過去に縛られていることに気付く営み自体が暴力的である。
もちろん、その暴力性の根源は出来事そのものに内在しているのだろうけれど、それにあえて目を向けさせることもまた暴力的である。
この行為を握っている弟子丸氏その人が恐ろしい。
しかしながら、わたしたちは過去に対峙し、自分に対峙することでしか未来に足を踏み出すことはできないのかもしれない。
「薬指の標本」では、過去を語ることの暴力性を感じたが、その後「六角形の小部屋」でそれは必要な痛みなのかもしれないと思った。
―自分の足で心の奥底へ降りてゆく意志が大事なのだと感じるだけです。(「六角形の小部屋」p191)
弟子丸氏や「六角形の小部屋」のミドリさんのように、過去を引き出すことをつかさどる人々はいずれも特徴がないことを特徴としている。
彼らは他人が語る過去の出来事を吸い込んでしまいそうな気がして、どこか末恐ろしく思われた。
けれど、もしかしたら彼らは自分自身なのかも…と思うと無特徴という特徴がすーっと理解できる。
彼らは読者たちの意志に問いかけているのかもしれない。
ZOO [読書]
下北サンデーズ [読書]
このほど初めて読んだ石田衣良。
お話の名前は『下北サンデーズ』。
おもぴろくなかったよ。
下北の小さな劇団に主人公が入団したらうまくいっちゃいました~!って話。
ありふれた展開。
そして、展開のための展開。
そういえばドラマ化されてたんだっけ、と思いググってみたら、放映打ち切りになってたのねw
ちゃんちゃん。
八月の路上に捨てる [読書]
伊藤たかみの芥川賞受賞作『八月の路上に捨てる』を読んで少し怖くなった。
自動販売機の飲み物を補充する仕事に就く主人公。
お話は主人公が離婚する前日であり、主人公の先輩である女性が再婚のために異動する前日のトラックが舞台。
じょじょに歯車が狂い出す結婚生活の話を挟みながら、トラックはルートを消化していく。
それぞれの最後の日が過ぎていく。
別に奇をてらった展開もなく、くさーいセリフや教訓めいたものもなかったと思う。
すべて日常の範囲内だった。
だからこそ、ほんのり怖くなってみたり。
読んでみて考えさせられたのが「思いやり」について。
主人公とその嫁はそれぞれ脚本家と編集者という夢があり、挫折している。
焦りやいらだちを抱えた二人は、お互いに当たっている。
自分に余裕がなくなると、相手への思いやりってのはなくなるらしい。
思い当たる節があり過ぎて、自分を見ているようだった。
気付いたら自分のことばっか考えちゃう。
「なんでわかってくれないの?」っていういらだちほど迷惑なものはない。
これまで思いやりってのは、相手のことを積極的に考え、汲み取ることだと思っていたんだけど、実際はその逆なのかもしれない。
相手への積極性というよりは、相手を何でも受け入れるという受容性の方が思いやりの本質ではなかろうか。
いや、結局言っていることは同じなんだけどね。
ただ前者と後者の違いを挙げるとするならば、わたしの姿勢が違うと思う。
わたしと相手の関係は非対称的。
コミュニケーションの成立で重要なのは、何を伝えるかじゃなくて何が伝わるか。
発信者よりも受信者の方が優位にある。
だからこそ逆に、よき受信者となることがよき思いやりなんだ。
やっぱり結局、相手のことを積極的に考え、汲み取ることが思いやり。
ぐるぐる話を巡らせてみたわたしは、思いやりを持つために余裕を持とうと思った。
多少の焦りやいらだちに対する耐性とそれを乗り越える力を持とう。
そうそう、私は面倒臭がり屋さん。
すぐ、「あ、これやりたくないなー」とか「やだなー」とか思っちゃう。
課題みたいに明らかにイヤなものだけでなく、楽しみだった遊びの約束もふとイヤになったりする。
その都度「やりたいと思って自分で選んだんでしょ?」ってよく言われた。
その通り。
でもそれがすごいむかついた。
まだまだ青かったあの頃を思い出した。
チルドレン [読書]
伊坂幸太郎の『チルドレン』を読んだ。
するするすーっとページが進むね。
昨日の夜から読み始めて、今日のバイト中に読み終わった。
ひと言でいうと、感想は「面白かった」です。
メインの登場人物である家裁調査官の陣内くんと全盲の永瀬くんがいい味を出していて、というかほとんどその二人によってなるお話だった。
でも、あまりにいい味を出しすぎているので、読み進める私はお客さんのままで、物語の世界には入り込めなかったな。
そういう意味で「面白かった」。
目だって面白かったのは、二人のキャラクターによってある出来事や事件が気持ちいい感じに処理されるところ。
もやもや謎だったり、すっきりしない問題が、陣内くんによっては単純で強引に、永瀬くんによっては柔らかで魔法にかかったように解決する。
そんなところが明快で痛快で気持ちいい。
あっぱれ!って感じ。
この本を読んでみて、私にとって読書において、物語のなかで何が起きているかというよりも、物語のなかで登場人物が何を考え何を感じているのかっていう点が重要なんだってことに気付いた。
ちなみに、うろ覚えだけど、『チルドレン』のなかで気に入った言葉は、
「柔軟じゃない人間は、歪む」
なんて傲慢な言葉なんだろう。
ここに書いてみて、あんまよくない言葉に思えてきたw
柔軟って言葉にも歪むって言葉にも、何らかの支配的な振る舞い方が含意されている。
支配的な振る舞い方に合わせることが柔軟で、それに反すると歪む。
ちなみに、ここでいう支配的な振る舞い方に正当性はない。
さて、こんな屁理屈をこねてみて、何が得られるかというと、文脈の偉大さ。






