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1月は「逢」 [雑記]

診断メーカーによる、今年の私。

アヤコさんの2011年 1月【逢】 2月【楽】 3月【妊】 4月【悲】 5月【迷】 6月【悩】 7月【潜】 8月【忍】 9月【栄】 10月【忙】 11月【金】 12月【幸】

そう!
1月は「逢」!!
そして1月はあと10日!
はたして…!?!?

さまざまなる定番について [雑記]

いやー、何はともあれ、機能は作るだけでなく、活用しなくてはね!

やっとPodcastなるものに手を出せるようになりました、24歳うら若き乙女。

機能の先にはコンテンツがなくてはね!

ラジオおもしれー!ということで、ひとり散歩しながらほてほてと聞く。
そして時折クスリと笑うのを堪えることができない。
よりにもよって散歩コース上、人通りMAXのタイミングで、クスリ、してしまう。

TBSの深夜ラジオなんだけど、いま聞いているトーク番組のお題が「さまざまなる定番」。
大きな物語の崩壊と小さな物語の乱立というポストモダン的な内容を匂わせるお題。
社会について、大上段で語るのは面白いんだけど、ロジックにばかり則って議論を進めると、どうにもこうにも現実からかい離しているような感に襲われるが、このお題はいかにも皮膚感覚でもって語れる切り口で良ろしおわすなぁ。

何しろ耳学問なところと(意味違うね)、通勤途中や市内徘徊中に聞くもんだから、また、しゃべり手も思い思いだから、首尾一貫としてなかなか話をフォローできないんだけど、何点か印象に残った話を備忘のため記する。

(定番とは何か?)
・コミュニケーションのコストを下げるために、物事を簡略的に把握する。→定番とは共通言語

(定番はどのように生じるか?)
ドラマ(マスメディア)は定番を創出させるためにベタなのか、現状ベタと呼ばれるスタイルが浸透しているからこそドラマでも取り上げられるのか?
⇒にわとりのたまご、ないし、共犯関係と結論付けるのは簡単すぎるが。

(ベタとは何か?)
定番とベタは微妙に違う気がする。定番はわりに肯定的に受け止められるが、ベタは否定的・批判的な色がある。双方、ありきたりなものであることに変わりはないが、それが安心感を付与したり前向きに捉えられているか、独創性のないイマイチなものと捉えられているかの違いか。ただ、ベタと呼ばれるものは、何だかんだ実践されていない神話化されたものも多い気がする。たとえば、クリスマスディナーフレンチ、ティファニーのアクセサリーをプレゼントして、そのままシティホテルにお泊り、なんてありえない。が、ベタと言えよう。いや、もはや言えないか?

(定番が必要な理由)
前衛を創出するには定番が必要。定番のアンチテーゼとしての前衛なので。

(古典回帰の現在)
新たな価値創造のためには、まず過去の礎を深く理解せねば、そのアンチテーゼなぞ創出されえないから。


つまり至極当然な話として、応用に進むには基礎を、という話に落ち着く。

だが、これは正直論点がずれた話ではないか?
応用に要請されて定番が生まれる、となると、定番は誰が作るのか?

うーむ。
たぶん、ある物事が定番とみなされる前、それは応用の段階がまだない、未熟な何かということになるだろう。
で、それが成熟したとき、そのある物事に関して、人は研究し尽くすというか、知りつくすというか、ある一定以上の認識が深さとしても広さとしても達成されるのだろう。
その時、ある物事は応用の段階を生み出していて、ある物事自体は定番となっているのだろう!

そういう意味で、「前衛を生むために定番が必要」と。
前衛を求めて実践するあくなき探究心が、同時に定番も生み出すと。

定番の発生原理がわかった。

では、どういう社会環境において、そのような原理が動作するのか、これについてはまた今度考えるとする。
疲れた。

建築勝負 [雑記]

ヨウジヤマモトの娘、山本里美(ファッションデザイナー)は言った。

建築ですと「これくらいのバジェットで、ここだけはキープしながら、こういう風にしてください」という注文があると思いますが、私の仕事の場合はないんですね。やりたい放題やって「共感する人だけ着てください」という職業なので、ある意味楽観的で、ある意味残酷なんですよ。

建築っていうものは、とかく制約の多い表現法だと思う。
100%自由な表現はできない。
頭の中で最高の建築物を描いたとしても、構造的に建てられるかどうかは別の話。
土質や斜度など、立地によって可能な建築も制限される。
また作るモノがあまりに巨大だから、費用の面でも自由でない。
まー、費用に関しては、奇特な大富豪が湯水の如く湧き出るお金を持ち合わせていたら、この限りではないが。

とにかく、100%自由な建築は不可能。
むしろ様々な制約やら条件の中でいかにベターなものを作るかが勝負かもしれない。

いかなる建築物も唯一無二のモノである。
ひとつとして同じ場所に建つ建築物はありえないからだ。
代替がない。
その唯一性をいかに捉えるか、生み出すかが、勝負。

翻って、その建築物を利用する人、住む人の視点に立ってみたい。
はたして、自分はその場所の唯一性に気づけるか?
私は、そこではないここを選び取る必然性に気づけるか?

使う人を置いてけぼりにするのも、また違う話。
一体全体、何が幸せなのか。
何が幸せを決定づける要素なのか。

わが人生悔いなし [雑記]

以前にも書いたが、最近「燃えよ剣」を読んでいる。
ちょうど昨夜読んだ件に、局中法度があった。
新撰組内の規律のことで、5条ある。

衝撃的な項目は条項2つ+細則1つ。
いずれも背いた場合、切腹である。

一、士道に背くまじきこと

一、局を脱することを許さず

そして、細則が、

公務によらずして町で隊外の者と争い、刃をかわし、敵を傷つけ、しかも仕留めきらずに逃した場合、切腹。

敵前逃亡も第一条に反することになるので、切腹。

とにかく一にも二にも切腹なのだ。
文字通り、必死の生活を強いられる。

さて。
私は必死の生活を送っているだろうか?
私自身、新撰組のこの過激な局中法度の精神は嫌いじゃない。
むしろ精神だけでいうと、積極的に取り込みたいと考える。

私のモットーである「わが人生悔いなし」という言葉のバックボーンはここにある。
明日死んだとしても、後悔しないように、常にベストを尽くして生きていきたい。
高校時代、愛すべき友達と下北沢で語った。
その思いは10年弱の時を経て、擦り切れてしまったのだろうか。

時間的にも空間的にも、いまここにある自分を越えたところを見据えるようになった。
先々のことを想定するようになったし、自分の眼前にある人以外も考慮せねばならなくなった。
つまり、いまの自分を縛る鎖がことごとく増えている。

二者択一の発想は極端すぎるとは思うけれど、でも、私の人生は私の人生。
いろいろと顧慮せねばならない、複雑な人間関係の網にからめとられている自分ではあるけれど、悔いのないよう、必死にならねば!と、目を覚ました夜更け。

久方ぶり [雑記]

久方ぶりのブログ更新でござい。
書きたくなるようなことが皆無だったわけじゃなくて、書く暇もないくらいに忙殺されていたわけでもなくて、ただただめんどくさかったために停滞してた。
でも、なんか自分のなかにあるものを、吐き出したくて、久方ぶりにここを訪れた次第でござい。

というと、やっぱり何か書きたくて来たよう思われそうだが、別段書きたいネタが今日、いま、私のもとに舞い降りているわけでもない。
書きたくなるようなことが最近ないからこそ、書きたくなった。
蛇口をひねるだけで水が出てくる日本の暮らしに慣れきってしまうのと同じように、気付いたら私の一日いちにち、日が昇り、そして沈むサイクルが淡々と繰り返されていたのだ。
私の貴重な刹那が流れ去ってしまっていたのだ。

私は刹那主義が嫌いではない。
世間では、刹那主義に、その場限りの享楽趣味の如く低い評価を与えているが、私は違う意味で刹那を生きている。
このブログのサブタイトルに掲げている通り、「わが人生悔いなし」ということ。
いま自分が生きている一瞬一瞬を常に最高の状態で生きること。
最高の状態は次の一瞬で常に更新され続けること。
いつ死んでも悔いがないように全力で生きること。

怠惰は弱き精神の避難所に過ぎない。
久方ぶりにブログを続けたいと思う。

記憶のアンビバレンス [雑記]

Dragon Ashの「百合の咲く場所で」は夜に聴きたい。
夏の夜が特にいい。
昼間に火照った身体をつーっと刺すように空気が冷えた夏の夜をますます鋭くさせる。
すごいかっこいいんだ。

最近はもっぱらオーディオかPCから直に音を出していたけれど、久しぶりにヘッドセットをつけてガチで音楽を聴きたくなった。
「百合の咲く場所で」な気分なんだろう。
これを聴くと一年生の夏を思い出す。
夏のカケラも見出せない冬の夜だってのに。

あるフレンズのブログに、音楽は記憶と結びついているよねーって書いてあった。
その通りだと思う。
でもそのフレンズの文章からは、そのことがとても辛いように伺われた。
わたしにはそのようなことはない(と思う)。

わたしにとって記憶はつねに美しい。
いまのわたしから遠くにいけばいくほど、美しくなる。
同時にそれはとても切ないことで、でもその遠さがないと美しくない。

聴き続けていると次第にドライブしたくなる。
車がまばらになった夜の東京を、ネオンをくぐって走りたい。


ちなみに [雑記]

昨夜染みた桑田さんの言葉は、

結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如である」

桑田さんのオリジナルではないそうだが、うーむとうならせられた。


現代という時代区分について思う [雑記]

いま「中世」とか「近代」って呼ばれている時代に実際生きていた人たちは、「オレ、中世に生きてるぜ」だなんて思っていなくて、「オレ、現代に生きてるぜ」って思っていたんじゃないかと思う。
「中世」とか「近代」とかって、あとから時代の流れを分かりやすく理解するために便宜上後からつけた名称なんだと思う。
歴史を振り返ったときに、ある特定の仕方で特徴付けられる一区切りの時代のことなんだと思う。

ここでいう特定の仕方とは、たとえば、宗教的な違いや産業構造の違い、人のつながり方の違い、国家の在り方の違いなどなど、さまざまな局面における時代間の違いを指すと思う。
厳密にみれば、各局面において時代間の違いが現れる時期が異なるだろうから、各局面における時代のはじまりと終わりは異なると思う。
でも、たぶん人間の営みってそれぞれが独立しているわけじゃなくて、「人間」を共通項として結ばれているから、きっと宗教への関心が変化したら、それに伴って産業構造も変わって、さらに人のつながり方が変質し、国家の在り方も変容するんだと思う。
だから各局面の転換点としての時代区分はだいたいある一定の時期に特定することができるんだと思う。
そして、ある時代の終わりというのは、次の時代のはじまりをもって達成されると思う。

とすると、いま私たちが仮に「現代」と呼んでいる時代はいつから始まりいつ終わるかというのは、次の大転換に直面するときまでわからないと思う。
「近代」とは異なる時代として「ポストモダン」だとか「ハイモダニティ」だとか言われるけれど、結局のところ、現代はどう特徴付けることで落ち着くのかしら。
次の現代はどんな時代になるのかしら。


KYな店 [雑記]

麻布十番に「KY堂」って靴屋があった。
なんだか無性に冬の寒さがこたえたよ。


時はゴウゴウと流れる [雑記]

日々の備忘録のために続けていたこのブログ…なんだけど、最近更新が滞っていた。
書き残されなかった数日だって、何か記録すべき・記憶すべき事柄はあったはず。
でも、書かなかった。
別に時間がなかったわけでもない。
書きたい気持ちが起きなかったんだ。
何かが毎日、毎瞬間起きているわけで。
記録をとろうと思えば、私は一瞬一瞬の状況を書き残すことができる。
にも関わらず、私の目の前で出来事を流れ去ってしまった。

昔、ドラえもんは、「時はゴウゴウと流れる」と言っていた。
よく覚えていないんだけど、たぶんきっと、いつも怠惰なのび太に対して時間の大切さを説こうと思ったんだろう。
ドラえもんは時間を可視化する道具を使った。
すると、ドラえもんとのび太の周囲に、突如急流のように激しい時の流れが現れる。
のび太は立っているだけで精一杯だ。

私が覚えているストーリーはここまでで、つまり「時はゴウゴウと流れる」ってことだけ妙に頭に焼きついているんだ。

ブログを書かなかったこの数日、何もなかったわけじゃない。
でも、出来事っていうのは起きたり起きなかったりするものじゃなくて、それを捉えられるか捉えられないかの問題なんだと思う。
私は捉えられぬまま、ぼんやりと出来事を見過ごしてしまった。
単なるスケジュールなら書けても、ブログを書けなかったのはそのためだ。
いや、ブログを書かないのは本質的な問題ではない。
それはわかりやすい現象に過ぎない。
最大の問題は、感じる心と考える意思が弱っていること。

なーんてことは個人的な日記に書くべきであって、わざわざネット上で公開しなくてもいいよね。
ブログのように管理しやすくて(しかも無料で)、でもネット上で公開しない方法ってないのかしら。


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