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薬指の標本 [読書]

小川洋子の『薬指の標本』を読んだ。

過剰に装飾的な表現なわけでもなく、説明的な描写なわけでもなく、するする入ってくる文章は読んでいて心地よかった。
先日読んだ乙一の『ZOO』ほどではないが、収められた二本の作品はともにどこかおとぎ話のようだった。
日常のなかでいるようで、どこか宙に浮いたような。
それでいて読者である現実のわたしを揺さぶるメッセージを感じる物語だった。

「薬指の標本」と「六角形の小部屋」はともに、ある過去の出来事や思いに絡め取られた人々を解放するお話。
しかしながら前者では、人々は自身を絡め取るものが何かはなからわかっていて、その上でそれらを標本にしてもらう。
一方、後者では、小部屋のなかで語ることで自分を捕らえる未知なる何かが明らかになっていく。
自身を絡め取るものが何かを、知っているか。知らないか。
これは大きな違いだ。

そもそも、時の流れに抗って、ある人を過去に引き留めるような出来事というのは概して暴力的な出来事だといえよう。
自分では理解できない出来事であり、対象化できない出来事、すなわち受け止めきれないほど暴力的な出来事であるがゆえに、人は過去に縛り付けられる。
このような出来事を受け入れるとき、人はその暴力に耐えねばならない。

「薬指の標本」の主人公は、標本技術士である弟子丸氏からこれまでで最もつらい出来事、悲しい出来事、痛い出来事、恥ずかしい出来事を言うように求められる。
しかし彼女は答えられない。
このやりとりが、わたしにはひどく暴力的に思われた。
弟子丸氏のやっていることは過去に縛り付けられている人を解放するかもしれないけれど、それ以前の問題として過去に縛られていることに気付く営み自体が暴力的である。
もちろん、その暴力性の根源は出来事そのものに内在しているのだろうけれど、それにあえて目を向けさせることもまた暴力的である。
この行為を握っている弟子丸氏その人が恐ろしい。

しかしながら、わたしたちは過去に対峙し、自分に対峙することでしか未来に足を踏み出すことはできないのかもしれない。
「薬指の標本」では、過去を語ることの暴力性を感じたが、その後「六角形の小部屋」でそれは必要な痛みなのかもしれないと思った。

―自分の足で心の奥底へ降りてゆく意志が大事なのだと感じるだけです。(「六角形の小部屋」p191)

弟子丸氏や「六角形の小部屋」のミドリさんのように、過去を引き出すことをつかさどる人々はいずれも特徴がないことを特徴としている。
彼らは他人が語る過去の出来事を吸い込んでしまいそうな気がして、どこか末恐ろしく思われた。
けれど、もしかしたら彼らは自分自身なのかも…と思うと無特徴という特徴がすーっと理解できる。
彼らは読者たちの意志に問いかけているのかもしれない。


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コメント 2

てらだ

小川洋子いいよねー、と昔はすごい思ってました。最近はそうでもないけど

・・・てか、仙台はどうした!?あれで終わりか!!??
by てらだ (2008-02-15 01:08) 

アヤコ

小川さんおもしろかったよ。
再読したいとは思わないけれど。

仙台のつづきはみんなの心の中で自由に広がり続けます。あひ。
by アヤコ (2008-03-14 22:10) 

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