So-net無料ブログ作成
旅行記 ブログトップ

海賊の街【サン=マロ】 [旅行記]

P1010244.JPG

 サン=マロは、海に突き出した独特の地形が要塞化された街である。ランス川河口を見張る要塞はローマ時代以前からあったもので、現在の市街地は6世紀に、聖アーロンと聖ブレンダンが設立した修道士の居住地が原型である。聖ブレンダンの弟子聖マロが街の語源になった。
P1010255.JPG

 フランスでは有名な保養地で、マリンスポーツのメッカでもあるサン=マロは、日本では近年「のだめカンタービレ」で注目されるようになったが、16世紀には海賊「コルセール」の根拠地として悪名を馳せた。フランス王は、敵対するイギリスの船からの掠奪に勅許を与えたのである。サン=マロは掠奪によって大いに栄え、誰の支配にも属さない自立の気風は、やがて1590年の「フランス人でもなく、ブルターニュ人でもなく、マロ人である」という独立共和国宣言に至り、4年間事実上独立を維持した。

P1010252.JPG 市内の「ケベック広場」には、「海賊王」と呼ばれたロベール・シュルクフの銅像がある。この街出身の最も有名な海賊で、フランス革命期からナポレオン帝政、王政復古の時代を股にかけ、47隻もの船から掠奪した。ナポレオンも彼から軍資金を借りるほどの大金持ちになり、また彼の首には500万フランの賞金がかけられた。
 彼はイギリスの軍人に「貴様らフランス人は金のために戦うが、我々英国人は名誉のために戦うのだ」と言われると、「何だと、人は自分に欠けているもののために戦うのだ!」と言い放ったという。
 なおシュルクフは、ケベックとは何の関係もない。

P1010237.JPG 海賊ではないが、この街の出身で最も有名な人物といえば、ジャック・カルチェである。フランソワ1世の命により、1534年の最初の航海で、ニューファンドランド島、プリンス・エドワード島、ガスペ半島を探検。イロコイ族の首長ドンナコナの息子ドマガヤとタイニョアニを捕らえ、フランスに連行した。
 1535年の2回目の航海では、イロコイ族の村スタダコナ(現在のケベック)に到達し、その周辺を「カナダ」と命名した。さらに上流に向い、ホチェラガ(現在のモントリオール)に到達し、そこをモン・レアルと命名した。カルチェはこのとき、さらに北には黄金の国サゲナイがあると聞かされた。
 1541年の3回目の航海では、黄金郷サゲナイを探したが見つからず、厳しい冬を越した後帰路に着いた。
 かくしてカルチェは、(ニューファンドランド島を除く)カナダ本土の発見者と考えられている。だが実際には、ノルウェー人、バスク人、ガリシア人、ブルターニュ人によってすでに発見されていたと考えられている。カルチェは未知の世界を航海するのに1隻も船を失うことがなく、死者もほとんど出さなかったのは、彼が優れたスキルを持った良心的な船乗りであることを示している。
P1010233.JPG

 サン=マロ郊外にある「リモエルー」は、彼が1541年に購入した邸宅で、現在はジャック・カルチェ博物館となっている。彼の銅像は海を臨む「オランダ砦」に立てられているが、「ケベック広場」でないのは何かの手違いとしか思えない。

 サン=マロが生んだ探険家としてもう一人、ジャック・グアン・ド・ボーシェーヌがいる。彼はフォークランド諸島を探検し、フランス語で“Îles Malouines”(マロ諸島)と命名した。これがスペイン語の「マルビナス諸島」の語源となった。

P1010246.JPG

 12世紀に築かれた城壁からは、雄大な海の眺望が広がる。海岸線から少し離れた沖にはグラン・ベ島とプチ・ベ島が見える。グラン・ベ島は、干潮時には歩いて渡ることができるが、そこにはサン=マロ生まれの作家で後に政治家となったフランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアンの墓がある。彼はシャトーブリアン・ステーキの語源となった人物である。


写真上から
・サン=マロの街を囲む城壁
・サン=マロ海上の要塞
・ケベック広場のロベール・シュルクフ像。
・ジャック・カルチェ像。
・リモエルー。
・グラン・ベ島(右)とプチ・ベ島(左)。

ノルマンディ上陸作戦【クルセーユ=シュル=メール】 [旅行記]

 (1) 史上最大の作戦
 ノルマンディ上陸作戦は、300万人近い兵員がドーバー海峡を渡りノルマンディーに上陸した史上最大の上陸作戦である。
 フランスが降伏すると、ドイツの戦力のほとんどがソ連に向けられることとなり、ソ連は自国の脅威を緩和するため、イギリス・アメリカに対しヨーロッパに第二戦線を築くことを要請した。連合軍は、1942年のカナダ軍によるディエップ攻撃失敗から、最初の上陸でフランスの港を直接攻撃しないことに決定した。上陸予定地はパ=ド=カレーかノルマンディしかなく、パ=ド=カレーの方が近いが守備が堅いため、ノルマンディに決定した。ラ・マドレーヌからウィストラムまでをユタ・オマハ・ゴールド・ジュノー・ソードの5つの区間に分け、ユタとオマハをアメリカ軍、ゴールドとソードをイギリス軍、ジュノーをカナダ軍が担当した。連合軍の侵攻計画は、初日にカランタン、サン・ロー、カーンおよびバイユーを確保し、ユタとソード以外の海岸を連携させ、海岸から10 ~16キロ進軍することであった。
 作戦開始の前兆として、レジスタンスに宛ててBBC放送が1944年6月1日、ヴェルレーヌの詩「秋の歌」第一節の前半“Les sanglots longs des violons de l'automne”(秋の日の ヴィオロンの ためいきの)を朗読した。これは決行前の1日か15日に放送され「連合軍の上陸近し。準備して待機せよ」という暗号だった。
 決行予定日は5日だったが、ドーバー海峡が暴風雨に見舞われたため、1日延期となった。ドイツ軍は悪天候が9日まで回復しないと予想したが、連合軍は大西洋に気象観測基地を持っていて、6日に天候が回復すると予測していた。こうして6月5日、「秋の歌」第一節の後半“blessent mon cœur d'une langueur monotone”(身にしみて ひたぶるに うら悲し)が朗読される。これは「放送された日の夜半から48時間以内に上陸開始する」という暗号だった。

 (2) 作戦開始
P1010224.JPG

 作戦は夜間の落下傘部隊降下から始まり、次に上陸予定地への空襲と艦砲射撃、それから上陸用舟艇による敵前上陸の順序である。まず海岸付近のドイツ軍を攪乱し、上陸部隊の内陸進攻を容易にするため、イギリスとアメリカの空挺師団がノルマンディー一帯に降下を開始した。だが夜間で視界は悪く、降下が早すぎた者ははるか後方に着陸し、遅すぎた者は海に落ちて溺死した。ドイツ軍は空挺部隊の降下を妨害するため、この地方の川をせき止めて沼を作っており、相当な数の兵士が沼に降下して溺死した。アメリカ軍第82空挺師団はサン=メール=エグリーズに降下したが、何人かは町の後方ではなくドイツ軍の守る市街地真っ只中に降下し、餌食となった。ジョン・スティール二等兵は、パラシュートがサン=メール=エグリーズ教会の塔に引っかかり、翌日まで死んだふりをしていた。彼をかたどった人形が、今も教会に吊り下げられたままである。
 連合軍は攻撃を開始する前に、陽動作戦としてパ=ド=カレーを攻撃していた。ドイツ軍は、連合軍の攻撃はパ=ド=カレーだと予想して主力をそこに配備していたし、しかも機甲師団はヒトラー直接の命令でなければ動かせない決まりになっていた。ヒトラーの寝起きが悪いのは有名で、誰も彼を早朝に起こそうとしなかったので、ドイツ軍の対応は遅れた。

 (3) カナダ軍、ジュノー・ビーチに上陸
P1010209.JPG

 艦砲射撃に続いて、7時45分ころ上陸部隊がジュノー・ビーチへの上陸を始めた。ジュノー・ビーチとは、クルセーユ=シュル=メールからサン=トーバン=シュル=メールまでの海岸である。この区域は、5つの区間のうちオマハ・ビーチに続き2番目に防御が強固な区間であった。海中の障害物はオマハ・ビーチの2倍の高さがあり、海には機雷が大量に敷設されていた。そして上陸したカナダ軍は、11基の155ミリ砲重砲台と9基の75ミリ砲中砲台、さらにトーチカと無数のコンクリート堡塁に直面する。上陸前には爆撃と艦砲射撃が行われたが、オマハ・ビーチとジュノー・ビーチでは、ドイツ軍の要塞にほとんどダメージを与えなかったため、この2つの区間は他の区間に比べ大きな犠牲を払うことになった。P1010823.jpg
 歩兵を掩護するため水陸両用戦車を先に上陸させる予定だったが、海が荒れているため多くは海に沈んだ。上陸すると何もない見通しのよい砂浜が続き、その向こうにはドイツ軍の待つ小高い丘があって、上陸した兵は何の遮蔽物もないうえ、上から丸見えであった。上陸した兵が生き残れるかどうかはほとんど運次第であり、最初の1時間で50%が死傷した。
 このような困難にもかかわらず、カナダ軍は数時間の内に海岸部を占領し、内陸への進軍を始めた。第6カナダ機甲連隊は、15キロ内陸のカーン-バイユー間のハイウェーと交差するという目的を達成した唯一の連合軍部隊となった。
 クルセーユ=シュル=メールには現在、カナダの軍事博物館「ジュノー・ビーチセンター」がある。
P1010218.JPG



写真上から
・ジュノー・ビーチ。
・ドイツ軍のトーチカ。
・カナダ軍によって最初に解放された家。
・クルセーユ=シュル=メールの街角に展示されている戦車。

太陽と月に背いて【ブリュッセル】 [旅行記]

 ポール・ヴェルレーヌは、フランスのメスに生まれた。パリの寄宿学校で学ぶが、このころすでに年下の男子中学生に恋愛感情を抱いている。
rimbaud.jpg 彼が1868年に発表した詩集「女の友達」は、レズビアンの愛を歌ったもので、風紀紊乱のかどで裁判所に破棄される。
 詩人として名を馳せるようになると1870年、マチルドと結婚するが、翌年アルチュール・ランボーから手紙が届く。同封されていた詩を読んだヴェルレーヌは、その才能に驚愕した。すぐに返事を書き、旅費を与えてパリに呼び寄せた。ランボーはまだ16歳の、背の高い美少年だった。ヴェルレーヌは妻に乱暴を繰り返したあげく、家庭を捨ててランボーとの同棲生活に入る。やがて妻は夫に愛想をつかし、ヴェルレーヌの友人たちはランボーの粗暴な振舞に嫌気がさして離れていった。
 
P1010185.JPG

 1873年7月10日、二人はブリュッセルのホテル「ロテル・ア・ラ・ビル・ド・クルトレ」にいた。現在は刺繍屋である。ヴェルレーヌはマチルダとよりを戻そうと考え、さもなくば自殺すると騒いだ。ヴェルレーヌの母親が心配になり、ホテルにやって来た。しかしマチルダの心は動かず、そればかりかランボーはヴェルレーヌと別れ、単身パリへ行くと言い出した。ヴェルレーヌは逆上して、ランボーに向けて拳銃を二発を発射、うち一発がランボーの左手首に命中する。ヴェルレーヌはモンスの刑務所に収監された。
 ヴェルレーヌは獄中で詩集「言葉なき恋歌」を出版した。それはランボーとの同棲生活から生まれた詩を収録したものである。獄中で妻から離縁状を突きつけられた彼は1875年、出獄するとランボーのもとを訪れるが、ランボーももちろんよりを戻す意思はなく、二人で格闘した。
paul_verlaine.jpg ヴェルレーヌはその後アルデンヌ県の中学校に勤めるが、教え子のリュシアン・レティノアを寵愛し、授業をおろされ、リュシアンとイギリスへ渡り、同棲生活に入る。だがリュシアンは1883年、腸チフスで死亡した。
 1885年、泥酔して母の頸を絞め、再び投獄される。出獄後は無一文となり、ホテル住まいになるが、母が死亡するとホテルを追い出される。その後は娼婦ユージェニー・クランツの情夫となるが、彼女がほかの男と駆け落ちすると、慈善病院を転々とする生活となる。最期は、娼婦に看取られて世を去った。

 ヴェルレーヌと別れたランボーは、その後詩作を捨て、中東を放浪しコーヒー商人や武器商人になるが、骨肉腫を患い、フランスに帰国する。右足を切断する手術を受けるが、癌が全身に転移し37歳の若さで世を去った。


写真上:アルチュール・ランボー。
写真中:ロテル・ア・ラ・ビル・クルトレ跡。
写真下:ポール・ヴェルレーヌ。

最後の戦死者 【ビル=シュル=エーヌ】 [旅行記]

 ブリュッセル中央駅からモンス駅に行き、そこからアーブレ駅に向かうが、この電車はローカルなので2時間に1本しかない。ところがmixiでモンス在住の人を見つけたので、きいてみたところ、アーブレ駅とモンス駅を結ぶバスが1時間ごとにあることがわかった。結局のところ、電車でアーブレに行くと、帰りのバスは20分後で、その間に対岸のビル=シュル=エーヌまで800メートルの距離を往復しなければならない。当然、小走りである。
 かつては小さな運河に、木製の橋がかけられていた。今は金属製の巨大な吊り橋がかけられている。遠くからでもよく見える橋だが、幅は人が二人すれ違うのがやっとと狭く、ワイヤーが風に吹かれるたびにきしんだ音を立てる。この橋は「プライス橋」と命名された。この村で、カナダ人ジョージ・プライスを知らぬ者はいない。
   *    *    *    *    *    *    *
George_lawrence_price.jpg ジョージ・プライスは1892年、ノバスコシア州ファルマスに生まれ、サスカチュワン州ムースジョーで農業を営んでいた。1917年に徴兵されカナダ軍第2師団第6旅団第28ノースウェスト大隊に配属された。
 第28大隊がベルギーのアーブレ村に進駐したとき、村人たちはこの解放軍を歓迎して祝宴を開こうとした。だが真面目一徹のアーサー・グッドマーフィ隊長はこれを固辞し、1918年11月11日朝、いつもより早起きして部隊をさらに前進させた。彼はこの日「11時までに、できるだけ多くの地域を占領するためできるだけ速く進軍すること」と命じられていたからである。

 その日の朝5時、コンピエーニュの汽車の中で、連合国軍とドイツ軍の代表が休戦協定に署名した。そこにはこう記されていた。「全ての戦いは、6時間で終了する」。
 カナダ軍司令部はこの知らせを6時半に聞き、すぐに4つの師団に下知した。情報はそれから12の旅団に、さらに48の大隊に伝達された。だがそれより下位の中隊・小隊は各地に散らばっており、その正確な位置を把握するのは困難で、即時の情報伝達は無理であった。
 第6旅団で一番先頭にいたのは第28大隊であった。伝令将校が馬を飛ばし、アーブレに休戦協定締結を知らせに来たのは10時半ころであった。だがそのときすでに、グッドマーフィはアーブレを発ち、部隊をサントル運河まで進めていた。
P1010178.JPG

 サントル運河に、木製の橋がかけられていた。ところがこの軍事的に重要な拠点には、ドイツ軍の姿が全く見当たらなかった。だがよく見ると向こう岸に民家が2件あり、橋を渡る者を牽制する絶好の位置にあるように見えた。グッドマーフィは、民家に銃眼のような穴があることに気づいた。
 「変ですね。あの家は何か怪しい。見て来ましょうか」。
 そう言ったのは、ジョージ・プライス上等兵だった。恋人の写真を、肌身離さず持ち歩いていた男だった。グッドマーフィは、自分とプライスともう3人を連れて、偵察に行くことにした。重い武器を持って行きたくなかったので、5人はピストルだけを携行した。
 橋をすばやく渡り対岸のビル=シュル=エーヌ村に着くと、プライスは映画のギャングのようにドアを蹴って、最初の民家に押し入った。だがそこには、スティブナール家の住人がいただけだった。ドイツ兵はその家の2階で見張っていたが、第28大隊の接近を見て慌てて裏口から脱出したあとだったのである。プライスは次に隣のルノワール邸にも押し入ったが、そこにもドイツ兵の姿はなかった。そこでプライスがルノワール邸を出ると、民家の物陰からドイツ兵が橋に向けて機関銃を連射していた。どうやらドイツ軍は、少人数でこの地を守っているらしく、第28大隊を渡河させたら殲滅されるため、必死で食い止めているようだった。プライスはドイツ兵を撃とうと思ったが、躊躇した。敵は自分たちの存在に気づいていないようで、自分たち5人こそ本隊から孤立しており、ここで発砲したら存在を気づかれてしまうと思ったからである。
P1010180.JPG 安全にこの地を離れることが急務だった。プライスは辺りを見回し、ドイツ兵がいないのを確認して路上へ出た。そのときルノワール氏は「戻れ」と声をかけたが、その瞬間銃声が轟いた。
 銃弾を浴びたプライスは、その場に倒れた。グッドマーフィと居合わせた23歳の看護婦アリス・グロットが、危険を顧みず路上に飛び出し、プライスの体を引きずってルノワール邸に運んだ。ルノワール夫人とグロットは懸命に看護しようと努めたが、銃弾が右胸に命中しており、手の施しようがなかった。プライスが息を引き取ったのは11月11日10時58分。休戦協定発効のわずか2分前であった。
 11時。教会の鐘が村じゅうに鳴り響いた。4人のカナダ兵にとって、プライスの遺体を抱えて橋を戻ることは命がけであった。だが予想された銃撃はなく、何の危険もなく橋を渡ることができたので彼らは不思議に思った。
 アーブレに戻ると、大勢の群集が通りに出て歓声を上げ、抱き合っていた。グッドマーフィは言った。
 「何があったんだ?」
 「何がって? 戦争は終わったんだよ! 生きてこの時を迎えられて、本当に良かった!」
P1010182.JPG




写真上から
・ジョージ・プライス。
・アーブレから見たプライス橋。
・プライス最期の地記念碑。「1918年11月11日午前10時58分第一次大戦の西部戦線におけるカナダ軍兵士として最後にカナダ第2師団第6歩兵旅団第28ノースウェスト大隊のジョージ・ローレンス・プライス上等兵がこの付近で殺害されたことを記念して彼の同士により1968年11月11日建立された」と刻まれている。
・プライス最期の地記念碑とプライス橋。運河は後年拡張され、ルノワール邸も今はない。

自由の街【アムステルダム】 [旅行記]

P1010153.JPG アムステルダムに来ると、犬の看板を掲げたCoffeeshopがやたらと多い。それがどういう種類の犬なのかについては、ここに書くことはできない。「喫茶店」はオランダ語では“Koffiehuis”と言うはずだが、どうしてこの店は英語表示になっているのだろうか。きっと訳ありなのだろうと思い、中に入ってみる。入ってみると、コーヒーを飲みたい気分では全然ないのに、むしょうにケーキが食べたくなってしまう。見るとケーキ1個が5.5ユーロ(約680円)するという。1個でその値段は、高すぎるのではないか、とクレームをつけたい気持ちをぐっとこらえて、きっと食べたら幸せな気持ちになる成分でも入っているのだろうと信じて、買ってみる。ただしテイクアウトである。このケーキがその後どうなったのかについては、ここに書くことはできない。

 気分を変えて、アンネ・フランクハウスに行く。アンネはドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれ、ナチスの政権掌握後は一家でアムステルダムへ移住した。しかし第二次世界大戦中オランダもドイツに占領されると、一家は1942年7月、父オットー・フランクの会社があったビルの3・4階と屋根裏で潜伏生活を始めた。
 1944年8月4日に隠れ家を発見され、住人全員が強制収容所へ移送される。アンネは姉のマルゴットとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送られるが、チフスを患い、1945年3月頃に死亡した。アンネがアムステルダムでの2年間の潜伏生活について綴った日記を、戦後オットーが出版したのが有名な「アンネの日記」である。

 アムステルダム駅に向かう途中、噂の「飾り窓」地帯を放浪する。娼婦たちは乳首と陰部だけを隠した、極めて露出度の高い服を着ている。うろついているのは男だけでなく、女もいる。みんなひやかしの観光客だろうか。
 ここで一句:

  オランダで 飾り窓見る スケーベニンゲン

「オランダ」と「スケーベニンゲン」が係り結びになっています。おあとがよろしいようで。


写真:アンネ・フランクハウス。

国境を越えると、また国境だった【バールレ・ナッサウ】 [旅行記]

Baarmap.jpg

 ブレダ駅からバスに乗り、知る人ぞ知る「バールレ・ナッサウ」に向かう。ここはオランダ領内のベルギー飛び地である。それだけなら珍しくないが、ベルギー領の中にさらにオランダ飛び地があるという、マトリョーシュカ状態になっている。オランダ領内に22か所のベルギー飛び地があり、その中にさらに7か所のオランダ領があるのだ。町の人口はオランダ側が6600人、ベルギー側は2300人で、合計9000人弱。ベルギー領は「バールレ・ヘルトホ」と言う。
 国境にまたがった建物は非常に多く、原則として入口のある方の国籍に属している。この町では多くの家が、帰P1010138.JPG属国を示すために国旗を掲げている。ただし商店や公共の建物は、両国の国旗を掲げている。町役場や郵便局はオランダとベルギーの両方があり、電話会社も別々だが、町内での通話は国境に関係なく市内通話として扱われる。警察署は1997年まで別々だったが、現在では同じ建物に統合された。とはいえ、2つあることに変わりはない。
 この地域は昔バールレという1つの村で、ブレダ王が領有していた。ところが、先祖がブレダ王に領地を売ったというブラバン公爵との間でトラブルになり、1198年ブレダ王はバールレをいったんブラバン公に与え、ブラバン公は与えられた領地をローンの形で少しずつブレダ王に返上することになった。しかし結局、ブレダ王のもとに戻った土地は一部だけで、しかも飛び飛びであった。後にブレダ王の領地はナッサウ家に渡り、それぞれバールレ・ナッサウ(ナッサウ領バールレ)やバールレ・ヘルトホ(ヘルトホ=公爵領バールレ)と呼ばれるようになった。これだけなら神聖ローマ帝国領内で領主が異なっていただけのことだったが、1648年にオランダがスペインから独立すると、カトリックの影響が強かった現在のベルギーはスペイン領に留まることになり、バールレ村は2つの国に分かれることになったのである。
 ベルギーは1815年にオランダの一部になったが、1839年に独立。その際に飛び地を解消しようとオランダとベルギーで協議を試みたが話がつかず、1882年には両国政府の間でほぼ同じ面積の領土を交換して飛び地を解消するプランがまとまったが、オランダ領へ編入されることになるカトリック教徒が反対して頓挫。その後もこれまでにオランダ政府とベルギー政府で飛び地の交換が何回か検討されたが、いずれも物別れに終わった。1906年にはオランダがベルギーとバールレ・ヘルトホとの間の貨物に関税をかけたことから、ベルギーは本土との間を結ぶ回廊の設置を求めたが、代わりにオランダへ割譲する土地が見つからず断念した。
P1010142.JPG

 かつては制限速度がオランダでは60キロ、ベルギーでは50キロだった。交通事故で救急車が出動したら、けが人は相手国の領土に倒れていたので救助できないという悲劇がついに起こり、いよいよ飛び地解消かと世論も沸いたが、実際には町の住民は飛び地の解消など望んではいなかった。
 ベルギーよりオランダの方が兵役期間が短いので、若者たちはオランダ側に引っ越してきた。国境上にある家は所得税の安い方に入口をつけ換え、2004年からベルギーで公共の場での喫煙が禁止されると、レストランやバーは入口をオランダ側につけ換えた。この町にはかつてやたらと銀行が多かったが、それには訳があった。いくつかの銀行は国境をまたぐ土地に支店を建て、金庫を一方の国に設置し、金庫への通路はもう一方の国に設置することで両国の査察を免れ、マネーロンダリングを行っていたのだ。オランダ・ベルギー両国は合同で査察を行うことで対処したため、銀行の数はかなり減ったものの、国境そのものが観光資源となっている現状においては、飛び地の解消などあり得ない話なのだった。


写真上:観光案内所。
写真下:道路を走る国境線。ベルギーとオランダでタイルの貼り方が違うことに注意。地図14付近で撮影。

「フランダースの犬」の舞台【アントウェルペン】 [旅行記]

P1010120.JPG

 アントウェルペンのノートルダム大寺院は、日本人の多くが涙しベルギー人の多くが不快感を抱く「フランダースの犬」の舞台である。ここには、ネロが死ぬ前に一目見たかったルーベンスの「キリストの昇架」と「キリストの降架」がある。
P1010132.JPG

P1010127.JPG

 ウィーダの原作ではネロは15歳であり、本来なら働いている年齢である。彼は画家として大成することを夢見て、仕事を怠け絵を描いていた。コンクールで入賞したら皆を見返してやろうと目論んでいたが、手違いから受賞できず、最後は芸術に殉ずる形で教会でのたれ死にを遂げる。
 それを日本アニメ版「フランダースの犬」では、主人公を10歳の少年として描いた。それゆえ主人公の純真さが強調され、より悲劇的な最期となったが、身寄りのない10歳の少年を見捨てた薄情な人々として描かれたフランダースの人々は、この作品に不快感を抱くようになった。


写真上:ノートルダム大寺院。
写真中:ルーベンス作「キリストの昇架」。
写真下:ルーベンス作「キリストの降架」。

In Flanders Fields【イープル】 [旅行記]

P1010114.JPG イープルの市内は全て石畳で、とてもレトロな外観になっている。この街は第一次大戦で3度にわたる戦いの末、一度は廃墟と化し、その後以前と似た外観に再建されたものである。
 市内の北部に「エセックス・ファーム墓地」がある。そこはかつて、ジョン・マクレーが滞在した駐屯地であり、彼の有名な詩“In Flanders Fields”誕生の地でもある。

 ジョン・マクレーは1872年、オンタリオ州ゲルフに生まれた(生家は現在マクレー・ハウス博物館)。軍人の息子である彼は14歳でゲルフ・ハイランド士官学校に入り、その後トロント大学で医学を修めた。大学時代には最初の詩集を刊行している。
495px-JohnMcCraeportrait.jpg マクレーは医師として勤めるかたわら、余暇には詩を書きスケッチもした。ボーア戦争では砲兵隊に入り、女王のメダルと従軍記章を獲得した。その後はバーモント大学の教授になっている。
 第一次世界大戦では70歳を過ぎた父とともに入隊し、マクレーは軍医としてフランドルの戦地に赴いた。ところが彼の教え子でもあったアレクシス・ヘルマー中尉が、イープルで戦死する。翌日ヘルマーを埋葬した彼は、幾重にも並ぶ白い十字架と、辺りいっぱいに咲き乱れる赤いケシの花を見た。ケシの種は、地に落ちると何年もそのまま眠りにつき、何かの原因で地面が掘り返されると芽を出す。戦場となったフランダースの野原は、兵士たちによって徹底的に踏み荒らされ、掘り返された。それで地に落ちていたケシの種は、いっせいに長い眠りから覚め、真っ赤な花を咲かせたのである。その光景は、兵士たちが戦場で流した血潮のようであった。マクレーはこみ上げる感情のままに、一遍の詩をしたためた。


 In Flanders Fields(フランダースの野に)

0406-01-09-0381.jpgIn Flanders fields the poppies blow
フランダースの野にケシの花がそよぐ
Between the crosses, row on row,
幾重にも並ぶ十字架の間に
That mark our place; and in the sky
僕たちの場所と印された地に
The larks, still bravely singing, fly
ひばりは今も勇敢に飛んで歌う
Scarce heard amid the guns below.
砲音の響く中その声はかき消されても

We are the Dead. Short days ago
僕らは死者、この前まで生きていた
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
曙を感じ、夕日が輝くのを見ていた
Loved, and were loved, and now we lie
愛し、そして愛された。だが今はここに眠る
In Flanders fields.
フランダースの野に

Take up our quarrel with the foe:
僕らの戦いを続けてくれ
To you from failing hands we throw
倒れながら君たちに投げ渡す
The torch; be yours to hold it high.
たいまつを君たちの手で高く掲げよ
If ye break faith with us who die
死んだ僕らの信念を裏切るなら、僕らは眠れない
We shall not sleep, though poppies grow
どんなにケシの花が咲き乱れても
In Flanders fields.
フランダースの野に


P1010116.JPG この詩「フランダースの野に」がその年イギリスの雑誌「パンチ」に載るや、大きな反響を呼び、この詩は戦争の悲惨さと平和への祈りを象徴するものとして全世界に広まり、この詩はカナダ人が書いた詩のなかで最も有名なものとなっていった。マクレーは1918年、肺炎で戦病死した。

 終戦の2日前、ジョージア州アーテンズのモイナ・マイケルという一人の女性がこの詩を読み、戦没者を記念しケシの花を身に付けることを始めた。1920年、アメリカを訪れたフランスのグェラン夫人がコロンビア大学でマイケルさんに出会い、戦争の被害に遭った貧しい子供たちのために、終戦記念日前に手作りのケシの花を売るチャリティーを始めた。翌年、イギリスの退役軍人会を創設したアール・ヘイグはグェラン夫人の心意気に感動し、イギリスの退役軍人会が貧民と傷痍軍人のためのチャリティを行うことを許可した。今日、ポピー・キャンペーンは王立カナダ退役軍人会の最も重要なプログラムの一つとなっている。ポピーの売り上げ金は貧困に悩む退役軍人を補助し、また医療器具やリサーチ、ホームサービス、養護施設その他の目的に使われている。


写真上から
・エセックス・ファーム墓地
・ジョン・マクレー
・墓標の間に咲くケシの花
・マクレーが滞在した塹壕

世界初の大規模毒ガス戦【シント=ユリアーン】 [旅行記]

 ホテルでレンタサイクルを借り、4キロほど離れたシント=ユリアーンに行く。そこは第二次イープルの戦いで、カナダ軍が世界初の大規模毒ガス攻撃を受けた場所である。

NYTMap2ndBattleOfYpres1915.png

 緒戦で破竹の進撃を続けたドイツ軍は、1914年10月の第一次イープルの戦いに敗れ、戦線は膠着した。そこでドイツ軍は西部戦線の突破を断念し、東部戦線で攻勢に出て、機を見てロシアと和平を結ぶ方針に転換し、そのための陽動作戦として西部戦線で攻勢を取ることにした。イープルが選ばれたのは、この地が突出していて包囲が容易だったからである。この戦いで初めて火炎放射器が使用され、また西部戦線では初の毒ガス戦となった。なお毒ガスの使用は、1899年のハーグ陸戦条約で禁止されていた。
 ドイツ第4軍は1915年4月22日、イープルで世界初の大規模毒ガス攻撃を開始した。世界初の毒ガス使用は同年1月のボリロフだったが、温度が低く拡散しにくかったうえ風向きも悪く、ロシア軍は全く気づかなかった。そこで今度は170トンもの塩素ガスを5700本のガスボンベに充填し、かすかな北東の風が吹いたところを見計らって、集中的な砲撃を加えた後、連合国軍の塹壕に向けてガスを噴射した。塹壕+機関銃の守備力は鉄壁で、戦況はしばしば膠着したが、塩素ガスは空気より重いので、塹壕の攻撃には適していた。
風下はフランス第45師団(アルジェリア師団)で、逃げ遅れた兵士は痙攣して数分で死亡した。アルジェリア師団は大きく後退し、そのすきにドイツ歩兵部隊がその地を占拠した。アルジェリア師団のいた右にはカナダ第1師団がシント=ユリアーンに残されたため、彼らはその左側面を非常な危険に晒すこととなった。
 カナダ第1師団は開戦と同時に編成され、兵員はすべて志願兵で、軍隊経験のある者はまれだった。ケベックのキャンプで基礎的な訓練を受け、その後イギリスで5ヶ月の訓練を受けただけでイープルの前線に送られた。師団長と少数の参謀はイギリス人だったが、旅団長以下はすべてカナダ人で、彼らのほとんども民兵としての経験しかなかった。
 毒ガス攻撃を目撃したマクラーレン少佐は、日記にこう記している。
 「北西から砲弾の破裂音をきくと同時に奇妙な色(黄、緑、灰色ともつかぬ)の雲を目撃した。地面近くの色が濃く上に行くと薄くみえた。フランス軍がいつもと違う火薬を使ったのかと思った。」

 カナダ軍は危機を脱出するため、その日のうちに夜襲を決行した。カナダ第1師団から選抜された第10および第16大隊の1500人は午後11時45分に突撃を開始し、機関銃による反撃をかわし、ほぼ全員が目標のキチナーの森に突入した。だがドイツ軍は後ろに第2の後退用塹壕を用意していた。森には猛烈な十字砲火が浴びせられ、カナダ部隊はたまらず後退した。
 だが23日には、イギリス・カナダ連合軍によるモーゼルリッジへの攻撃で、前線を元の位置にまで押し戻すことに成功する。しかしカナダ軍はこの日だけで850人の死傷者を出し、大きな代償を払うことになった。
 24日にはカナダ師団全体に毒ガス攻撃が行なわれた。カナダ兵は水につけた手ぬぐいしか防具はなかった。塩素ガスは水と反応すると非活性となるからである。カナダ師団は第2線の陣地まで後退したが、ドイツ軍が攻勢に出ると機関銃で反撃し、撃退することに成功した。

P1010112.JPG

 カナダ軍は、第二次イープルの戦いで2000人の戦死者を出した。カナダ兵は素人同然だったが、割り当てられた前線を一歩も引くことなく防衛した。フランスでもベルギーでもカナダ軍の活躍は賞賛された。5月3日カナダ第1師団は後続のイギリス師団と交代し、第二次イープルの戦いを終了した。イープルの町は完全に壊滅した。
 イープルで初めて使用されたマスタードガスは、町の名にちなみイープリートと呼ばれた。そのイープルは、初めて核兵器が使用された広島と姉妹都市になっている。

カナダ独立の原点【ビミー】 [旅行記]

P1010103.JPG 無人駅、というよりホームしかないローカル駅ビミーで下車し、2キロほど歩くとカナダ人の聖地ビミー・リッジに着く。

 (1) カナダ軍の新戦術
 ビミー・リッジの丘は高さ110メートル、長さ8~10キロメートルに過ぎない。だがこの丘はフランス北部におけるドイツ軍の重要な拠点であった。周囲にはほかに高地はなく、四方全ての見通しがきき、しかも連合国側からは峰の向こうは遮断されて見えず、兵力を正確に把握することができない。丘の東側は急な崖になっており、敵の侵入を拒んでいる。ドイツ軍はここに無数の塹壕を掘り、三重の有刺鉄線を張り巡らせ要塞化していた。
 フランスは1915年にビミー・リッジを攻撃し、一時は丘を占領したが、増援が時間通りに到着しなかったため守り抜くことができなかった。フランス軍はモロッコ師団の半分と外人部隊の3分の2にあたる15万人を失った。
 イギリス軍は1917年4月にアラスを攻撃することを決定し、ビミー・リッジ攻略の任務をカナダ軍に与えた。そしてカナダが派遣した4個師団を別々にイギリス軍に組み込むのではなく、合同してカナダ軍を形成するのが士気を高めるうえで好ましいという観点から、4個師団が合同し史上初めてカナダ軍が結成された。これはカナダ4個師団とイギリス1個師団から成り、総勢17万人のうち9万7000人がカナダ人であった。しかしフランス軍参謀総長のロベール・ニベルはカナダ軍の攻撃を無謀と断じ、失敗に終わるだろうと予測した。
 カナダ軍司令官にはイギリスのジュリアン・ビング中将、副官にはカナダのアーサー・カリー少将が着任した。この2人のコンビは第2次イープルの戦い以来である。ビング中将はかつて着古した軍服を着ているのを国王に注意されたほどで、その気取らない性格はカナダ兵たちに愛された。
 「私が求めるものは統制である。そして決して目的を見失ってはならない。」
 ビングは兵士全員に地図を配り、作戦について説明した。従来は一部の士官だけがそれを握っていたため、士官が戦死すると部隊は混乱に陥り攻撃続行不可能になっていたのである。
 カリーは1915年のイープルの戦いで、カナダ部隊を率いてキチナーの森に突撃した隊長である。また1916年のベルダンの戦いでは、カナダのオブザーバーとしてフランス軍が直面した問題を間近に見た。カリーは高級将校たちとは異なり、過去の失敗から学ぼうとした。
 カリーは、機関銃と有刺鉄線に向かって歩兵隊の波を送る自殺的“over-the-top”戦術に疑問を抱いた。ここ3年間、ドイツ兵は塹壕内で砲撃をじっと耐え、砲撃が止んだらそれが突撃の合図なので塹壕を出て機関銃ポストに就き、敵歩兵を一人ずつ倒していけはよかったのである。そこでカリーが開発した新戦術は「忍び寄る砲撃」というものだった。これは、敵地に向かう歩兵を援護すべく、後方から正確に歩兵隊の前を集中砲撃するというものである。友軍を砲撃しないよう3分ごとに正確に、歩兵隊は90メートル進み砲兵隊は90メートル先を砲撃することになる。集中砲撃は煙と埃を出し、味方の歩兵隊を隠す役割も果たす。だがもし前進が遅れば、彼らは丘の上のドイツ軍の射撃の標的にされるし、速ければ自軍の砲撃を受けることにもなる。ビングはビミー・リッジの実物大模型を作り、兵士に入念に予行演習を行わせた。
 「諸君は電車のように正確に進まなければならない。さもなくば全滅する。」
 またカナダ軍は百人規模の中隊による突撃を廃し、数十人からなる小隊を作り、小隊内に機関銃・ライフル・手榴弾専門の兵士を置くシステムに替えた。前線での機関銃銃撃は、後方からの集中砲撃を補足し、歩兵の前進をより安全なものにした。
 ビングはさらに、科学にくわしいマギル大学教授のアンドリュー・マクノートン中佐を顧問につけた。彼は前線に原始的なオシロスコープとマイクロフォンを設置し、敵の銃の音を拾うことで敵兵の位置を調べた。またフラッシュ観測装置を置くことで、大砲の位置も割り出した。これらは全て地図に記され、全員に配られた。彼はまた、接触すると直ちに点火するヒューズを備えた新型の砲弾を開発した。これでソンムの戦いでは不可能だった、有刺鉄線に穴をあけることが可能になった。
 ビングはまた、歩兵隊を敵の砲撃にさらすことなく送るため、突撃点まで地下道を掘った。合計11本もの地下道が掘られ、内部には司令部、野戦病院、3500人収容の地下室まで作られ、地下鉄・水道管・電話線が通り、電灯も設置された。
 4月2日から準備砲撃が始まり、100万発以上の砲弾が発射された。ドイツ軍の大砲は丘の向こう側に隠されていたが、フラッシュ観測装置と気球によって位置を見破られ、その83%が破壊された。

biggest_map.jpg

 (2) イースター・マンデーの総攻撃
 カナダ軍第1師団の任務は、アラスとランスを結ぶ道より西側を攻撃し、テリュ南部にある塹壕を奪取し、ファルビュを獲るべく東へ向かうこと。
 第2師団は第1師団の北に配備され、テリュを攻撃しその塹壕を奪取すること。
 第3師団は、1.2キロ先のラ・フォリーの森を攻撃し、ビミー・リッジの東斜面に向かうこと。南側とは異なり、東側は塹壕と大砲の穴で満ちている。
 第4師団は、ブラドマルシュからジバンシーまでを攻撃すること。その最終目的は、最高点145高地と東斜面である。ここはビミー・リッジで最も堅く守られた部分であり、その北側は「ピンプル」(吹き出物)と呼ばれ、四方に砲撃可能な開けた地点である。
 最終目的の145高地の占領は、第3師団のラ・フォリー占領にかかっており、それは第2の師団のテリュ占領にかかっており、それは第1師団の働きにかかっていた。
 1917年4月9日イースター・マンデーの朝、1万5000人のカナダ軍兵士が地下道から出て来たとき、天候は吹雪に変わった。戦いの序盤で4人の兵士が、ビクトリア十字勲章に輝く目覚しい活躍をした。
 第1師団第16大隊のウィリアム・ミルン上等兵は穴から飛び出し、泥の中を匍匐前進して手榴弾を投擲し、敵の機関銃の破壊に成功した。彼は終日勇敢に戦ったが、自らの胸にビクトリア十字勲章が輝く日を見ることなく、この日戦死した。
 第2師団はすみやかに前進し有刺鉄線を越えたが、隠された敵の機関銃に行く手を阻まれた。そのとき第18大隊のエリス・シフトン軍曹が勇敢に突進して、銃を破壊し射手を銃剣で突いて、反撃を封じた。彼もまたその直後に殺され、ビクトリア十字勲章を見ることなく戦場に散った。
 彼らの勇敢な働きに助けられ、第3師団も前進した。
 第4師団も集中砲撃に援護され、前進して145高地とピンプルを結ぶ尾根を望む地点に楔となる遮蔽物を立てた。その地点はすぐに高所からの猛烈な射撃に晒されたが、それは次第に衰えていった。第38大隊のセイン・マクダウェル少佐が機関銃を2個爆破したのである。彼はなおも逃亡するドイツ兵を退避壕まで追い、自分の後ろに大軍がいるとうまく騙して将校2人と兵士77人をまんまと捕虜にした。
 開戦後わずか2時間で第1・2・3師団は目的を達し、ビミー・リッジの大部分はカナダ軍の手に落ちた。だが第4師団のみがピンプルからの猛攻を受け、最重要目的の145高地を占領できずにいた。第87大隊は6分で60%もの死者を出し撃退された。日没までに、第85大隊はなんとか西の頂上を確保することができたものの、丘の東斜面はドイツ軍の手中に残った。
 翌朝第50大隊のジョン・パティソン上等兵が、一人機関銃から30メートルの地点まで進み、抜群の精度で敵の機関銃に手榴弾を3発投擲して命中させた。彼はそれから機関銃ポストに進み、射手5人を銃剣で殺し、145高地における手詰まりを打開した(彼は2か月後にランスで戦死したため、彼もまたビクトリア十字勲章を見ることはなかった)。そして激戦が続く中、援軍として送られた本来は補給のためのノバスコシア第85大隊が、ついに145高地の占領に成功する。ドイツ軍はいっせいにピンプルまで後退した。ピンプルに挑んだウィニペグ第78大隊は四方から銃撃を受け、65%もの兵士が死傷した。これ以上の攻撃は無理とみたカナダ軍は、その日の攻撃を中止した。
 そして4月12日、エドワード・ヒリアン准将が第10旅団を導いて、1時間でドイツ軍をピンプルから蹴散らし、ついに丘を完全に手中に収めることに成功した。彼は後に報告書に「ピンプル卿」と署名した。初めて結成されたカナダ軍の、記念すべき勝利であった。パリの新聞は「カナダからのイースター・プレゼント」と報じ、イギリスのロイド=ジョージ首相も「カナダ人は見事な役割を演じた」と賞賛した。カナダ軍は死者3598人、負傷者7004人と大きな犠牲を払ったが、ドイツ軍兵士4000人を捕虜にした。ドイツ軍の死傷者は2万人であった。

P1010102.JPG (3) カナダ独立の原点
 不運にもその日イギリス・フランス両軍の攻撃は失敗に終わり、カナダ軍の記念すべき勝利は、歴史上大きな地位を占めなかった。ジョン・キーガンの有名な著書でも、ビミー・リッジの戦いは全く触れられていない。だがビミー・リッジでの勝利は、西部戦線における手詰まりを打開した重要な転機となった。またその後ドイツ軍がパリ郊外まで侵攻したとき、ビミー・リッジが依然として連合国軍の手中にあったことは、その反撃の拠点として極めて重要な意味を持った。そしてイギリス軍の一部隊としてではなく、カナダ師団が初めて「カナダ軍」として戦い、しかもイギリス軍が敗北したその日に勝利を収めたことは、カナダ人のナショナリズムを刺激した。
Memorial_Vimy_face.jpg 俗に「カナダは独立の種をビミー・リッジで蒔き、兵士たちの血を養分として育てた」「彼らは植民地人として国を出て、カナダ人として帰還した」と言われる。「西部戦線で最も優秀な軍隊」と称えられたカナダは、その功績を認められ、独立国でないにもかかわらずパリ講和会議に代表を送り、国際連盟に加盟して1議席を得る。ビミー・リッジを境に、カナダ独立の気運は高まっていくことになるのである。
 今日ビミー・リッジの最高点には、カナダの建築家で彫刻家のウォルター・オルワードによって設計された「ビミー・メモリアル」が建てられている。フランス政府は1922年、ビミー・リッジをカナダに譲渡した。


写真上:ビミーの町から見たビミー・リッジ。
写真下:ビミー・メモリアル。

独裁者と探偵【アラス】 [旅行記]

P1010091.JPG アラスに到着。ここには「ロベスピエールの家」と「ビドック出生地」がある。マクシミリアン・ロベスピエールはアラスの生まれだが、彼の生家がどこなのかは今となっては不明である。ここは彼が、1787年から89年まで暮らした家である。
 アラス大学で法学を修め、弁護士となった彼は1789年、三部会議員となる。このころ彼が「死刑には犯罪抑止力はない」としてその廃止を主張していたのは興味深い。ジャコバン・クラブに出入りして頭角を表し、ジロンド派・ダントン派・エベール派を粛清して実権を握った。
 彼は「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」と称し、公安委員会・保安委員会・革命裁判所などの公安組織を掌握して、反対派を断頭台に送る恐怖政治を断行した。彼のジャコバン派(ロベスピエール派)が革命の急激な進展を求めて、財産の平等・身分特権の廃止を志向したことは後の共産主義のモデルになったと言われている。また議会では議長から見て左側に陣取ったことから「左翼」の語源にもなった。
 だがジャコバン派の独裁と恐怖政治に恐れをなした反対派は、対外戦争が好転し国内危機が一段落するとテルミドールのクーデターによって、ロベスピエール兄弟らジャコバン派首脳を断頭台で処刑した。

P1010096.JPGP1010092.JPG
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 フランソワ・ビドック出生地は、現在はパン屋になっている。脱走兵として投獄された彼は、獄中で様々な犯罪者と出会い、幾多の犯罪テクニックについて学ぶ。出獄後はそのノウハウを活かしてパリ警察の密偵となり、犯罪者と犯行手口を分類して膨大な書類を作成して、各地の警察に配備するという科学的捜査方法を確立した。
ビドックこそは、世界初の私立探偵と考えられている。世界初の探偵小説「モルグ街の殺人」を書いたエドガー・アラン・ポーが、その舞台をフランスに設定したのは、ビドックの影響だと考えられている。出生地の向かいには「ル・ビドック」という名のレストランがあった。


写真上:ロベスピエールの家。
写真下左:フランソワ・ビドック出生地。
写真下右:ル・ビドック。

20世紀最大の愚行【ボーモン=アメル】 [旅行記]

 4月30日朝、パリの空港に到着する。パリ市内へ行くのに、前回2006年はオワシーバスに乗ったら、通勤ラッシュにはまって1時間近く遅れたので、今回は郊外鉄道RERで向かう。
 前回はレイルパスをバリデーションしてもらうのに、空港にあるフランス国鉄SNCFの窓口で長い行列に並ぶ羽目になってしまったので、今回は旅行代理店に1000円手数料を払い、バリデーション済みのパスを購入しておいた。ところが、パスのままでは自動改札を通過できないので、通過券「コントラマルク・ド・パサージュ」をもらうのに、結局行列に並ばなければならないという、これではバリデーションしておいたのが無意味である。

 パリ市内に入り、リュクサンブール界隈を巡った後、アルベールに向かう。田舎である。ここからボーモン=アメルに向かうのだが、たまたま待っていたタクシーの運転手が、まるで英語ができなくて“Newfoundland memorial park”がどこかわからないという。ここから往復すれば20ユーロ以上のいい儲けになるのだが、この人は親切にも、英語のできるタクシー運転手を携帯で呼んでくれた。「20分後に来る」というので待つと、ちょうど20分後に来た。この英語の達者な田舎の老紳士は、見通しのいい田舎の道を100キロ近いスピードで飛ばす。15分以上かかりそうな距離を、10分で到着する。
 公園には、カナダとニューファンドランドの旗が翻っている。ここはフランス語で“Parc Commémoratif Terrenuvien ”という。なるほど“Newfoundland memorial park”が通じないわけだ。「20世紀最大の愚行」と言われたソンムの戦いの古戦場の一つで、ニューファンドランドの男子の4分の1が死亡したという、ニューフィーズにとっては忘れられない土地である。
   *    *    *    *    *    *    *
 ダグラス・ヘイグがイギリス軍司令官に就任した直後、フランス軍との間で作戦会議が行われ、西部戦線で攻勢に出ることが決定された。攻撃は1916年2月、イギリス軍20個師団とフランス軍40個師団で、場所がフランスのソンムに決まったのは、そこが英仏の守備ラインがつながるところで合同攻撃に都合が良いというだけの理由である。攻勢は東部戦線でのロシア・イタリア軍の攻勢に合わせて行われることとなった。
 だがドイツ軍が2月にベルダンで攻勢を開始したため、フランスは全ての戦略予備をそこに投入した。フランスにはもはやソンムで攻勢に出るための40個師団はなかった。だがそれでもヘイグはソンムの攻撃準備に邁進した。
 6月24日になると、フランス首相ブリアンはベルダンの戦況に不安を覚え、ヘイグに早くソンムを攻撃し、ベルダンに向かうドイツ軍を減らすよう要請した。実際にはドイツ軍はブルシロフ攻勢で東部戦線に予備師団を回したため、ベルダンの消耗戦には見切りをつけていたが、ヘイグはこの要請を受け、攻撃に着手した。
 翌日から準備砲撃が6日間、24時間連続で続けられた。173万発もの砲弾を撃ち込んだヘイグは、ドイツ軍は壊滅したものと信じ、7月1日歩兵隊に突撃を命じた。
 敵の塹壕までは数百メートル、走れば1・2分で到着するが、歩兵は自らの食糧を含む30キロの荷物を担いでおり、すばやく動くことはできない。アレクサンダー大王の時代なら、歩兵は密集隊形をとっているが、それでは機関銃の絶好の的になるので、散開して攻勢面を広げ、歩兵の密度を下げて突撃する。
P1010170.JPG 兵士全員で作ったイギリス軍の塹壕と異なり、ドイツ軍の塹壕は専門の工兵によって作られ、予想以上に頑丈だった。イギリス軍の突撃を知るや、ドイツ軍兵士は塹壕から姿を現し、機関銃を連射した。イギリス軍兵士たちはほとんど鉄条網の前でなぎ倒された。そして第2波、第3波とまた倒された。
 第一次大戦はニューファンドランド軍にとって、歴史上最初の(そして最後の)晴れ舞台であった。ニューファンドランドは当時カナダ連邦に加入しておらず、大英帝国の自治領であり、人口25万人のうち5482人が出征した。彼らの担当はボーモン=アメルで、エセックス第1連隊の第1波に続き第2波の攻撃を担当した。だが突撃した753人の兵士は、次々と機関銃の餌食となり、ニューファンドランド連隊はわずか30分で壊滅した。死者300人以上、負傷者350人以上、翌朝点呼に応えたのはわずか68人しかいなかった。
 第4軍司令官ローリンソンは異常を察知し、午前中に攻撃中止をヘイグに具申した。だが司令部のヘイグは15キロ以上後方にあり、前線で何が起きたか全く把握できず、戦闘に犠牲は付きものだとして攻撃を続行した。そのため一方的な殺戮が一日中続いた。その日ヘイグは本国に報告している。
 「今朝の攻撃は大成功である。すべては計画どおり時計の正確さで進められた。ドイツ兵はいたるところで上官の指示に従わず降伏している。敵は兵員が欠乏し他の戦線から部隊をかきあつめている。わが軍の士気は高く、確信に満ちている。」
P1010166.JPG 実際はこの日、イギリス軍だけで死者1万9240人、負傷者5万7470人、行方不明者2152人を出し、あらゆる戦争の歴史における1日の攻撃側損害の世界記録を樹立した。ソンムの戦いはその後5か月続き、イギリス軍42万・フランス軍19万5千、ドイツ軍は42万という空前絶後の戦死者を出し、連合国軍は歩兵の90%を失った。広島の原爆ですら14万人しか死亡していない。日露戦争の旅順攻防戦では、日本軍は7か月で死傷者6万人を出したが、要塞を陥落させ旅順艦隊を全滅させているのに対し、ソンムの連合国軍はわずか11キロ前進しただけであった。旅順攻防戦では初めてマキシム機関銃が使用され、機関銃の前に歩兵の正面突撃は無意味であることがすでに実証されていた。長篠の戦いで武田勝頼が、野戦築城し1000丁の鉄砲を用意した敵に無謀な突撃をかけたのは340年前のことである。ソンムの戦いではご丁寧にも、歴史上最後となる騎兵突撃まで行われている。終盤には初めてタンクが投入された。
P1010169.JPG ニューファンドランドは小さな島から死者1500人・負傷者2300人を出し、若者の4分の1を失ったことは島の経済に重大な影響を与えた。ニューファンドランド自治領は、第一次大戦の戦費とその後の大恐慌で苦境に陥り、1934年責任政府を返上しイギリスの直轄植民地に復した。1949年にはカナダ連邦に併合されるが、カナダ人の多くが建国記念を祝う7月1日は、ニューフィーズにとっては戦没者を追悼する日となっている。
 ジョージ5世はニューファンドランド連隊の健闘を讃え、連隊に「ロイヤル」の肩書きをつける勅許を与えた。現在もカナダ軍の中に「ロイヤル・ニューファンドランド連隊」はそのままの名称で存在している。戦場は彼らを記念して1925年、ニューファンドランド記念公園となり、ニューファンドランド政府の所有となった。現在はカナダ政府の所有で、公園内は今も不発弾が残っている。


写真上:イギリス軍の塹壕。
写真中:ニューファンドランド記念公園にあるトナカイのエンブレム。基部には第一次大戦で戦死したニューファンドランド兵の名が刻まれている。
写真下:砲弾の破片のため枝が全て落ちた木が、この地に一本だけ残った。周辺には不発弾が多く「危険・立ち入り禁止」の看板が掲げられたことから「危険木」と名付けられた。
旅行記 ブログトップ
著者へのご意見
canada_de_vow★yahoo.co.jp
★を@に変えて下さい。
メッセージを送る