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世界初の大規模毒ガス戦【シント=ユリアーン】 [旅行記]

 ホテルでレンタサイクルを借り、4キロほど離れたシント=ユリアーンに行く。そこは第二次イープルの戦いで、カナダ軍が世界初の大規模毒ガス攻撃を受けた場所である。

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 緒戦で破竹の進撃を続けたドイツ軍は、1914年10月の第一次イープルの戦いに敗れ、戦線は膠着した。そこでドイツ軍は西部戦線の突破を断念し、東部戦線で攻勢に出て、機を見てロシアと和平を結ぶ方針に転換し、そのための陽動作戦として西部戦線で攻勢を取ることにした。イープルが選ばれたのは、この地が突出していて包囲が容易だったからである。この戦いで初めて火炎放射器が使用され、また西部戦線では初の毒ガス戦となった。なお毒ガスの使用は、1899年のハーグ陸戦条約で禁止されていた。
 ドイツ第4軍は1915年4月22日、イープルで世界初の大規模毒ガス攻撃を開始した。世界初の毒ガス使用は同年1月のボリロフだったが、温度が低く拡散しにくかったうえ風向きも悪く、ロシア軍は全く気づかなかった。そこで今度は170トンもの塩素ガスを5700本のガスボンベに充填し、かすかな北東の風が吹いたところを見計らって、集中的な砲撃を加えた後、連合国軍の塹壕に向けてガスを噴射した。塹壕+機関銃の守備力は鉄壁で、戦況はしばしば膠着したが、塩素ガスは空気より重いので、塹壕の攻撃には適していた。
風下はフランス第45師団(アルジェリア師団)で、逃げ遅れた兵士は痙攣して数分で死亡した。アルジェリア師団は大きく後退し、そのすきにドイツ歩兵部隊がその地を占拠した。アルジェリア師団のいた右にはカナダ第1師団がシント=ユリアーンに残されたため、彼らはその左側面を非常な危険に晒すこととなった。
 カナダ第1師団は開戦と同時に編成され、兵員はすべて志願兵で、軍隊経験のある者はまれだった。ケベックのキャンプで基礎的な訓練を受け、その後イギリスで5ヶ月の訓練を受けただけでイープルの前線に送られた。師団長と少数の参謀はイギリス人だったが、旅団長以下はすべてカナダ人で、彼らのほとんども民兵としての経験しかなかった。
 毒ガス攻撃を目撃したマクラーレン少佐は、日記にこう記している。
 「北西から砲弾の破裂音をきくと同時に奇妙な色(黄、緑、灰色ともつかぬ)の雲を目撃した。地面近くの色が濃く上に行くと薄くみえた。フランス軍がいつもと違う火薬を使ったのかと思った。」

 カナダ軍は危機を脱出するため、その日のうちに夜襲を決行した。カナダ第1師団から選抜された第10および第16大隊の1500人は午後11時45分に突撃を開始し、機関銃による反撃をかわし、ほぼ全員が目標のキチナーの森に突入した。だがドイツ軍は後ろに第2の後退用塹壕を用意していた。森には猛烈な十字砲火が浴びせられ、カナダ部隊はたまらず後退した。
 だが23日には、イギリス・カナダ連合軍によるモーゼルリッジへの攻撃で、前線を元の位置にまで押し戻すことに成功する。しかしカナダ軍はこの日だけで850人の死傷者を出し、大きな代償を払うことになった。
 24日にはカナダ師団全体に毒ガス攻撃が行なわれた。カナダ兵は水につけた手ぬぐいしか防具はなかった。塩素ガスは水と反応すると非活性となるからである。カナダ師団は第2線の陣地まで後退したが、ドイツ軍が攻勢に出ると機関銃で反撃し、撃退することに成功した。

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 カナダ軍は、第二次イープルの戦いで2000人の戦死者を出した。カナダ兵は素人同然だったが、割り当てられた前線を一歩も引くことなく防衛した。フランスでもベルギーでもカナダ軍の活躍は賞賛された。5月3日カナダ第1師団は後続のイギリス師団と交代し、第二次イープルの戦いを終了した。イープルの町は完全に壊滅した。
 イープルで初めて使用されたマスタードガスは、町の名にちなみイープリートと呼ばれた。そのイープルは、初めて核兵器が使用された広島と姉妹都市になっている。
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